2019年3月

土佐町ストーリーズ

土佐柴刈り唄 後編(高須)

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ここでこの柴刈り唄のモデルとなった話を一つしてみようかのう。

江戸時代の終わりの頃、高須の台という所に常右衛門と言う、部落の世話をようやっておいでた人がおった。
ある日、笹山を越えて高知へ行く途中、土佐山村の菖蒲と言う所でお兼と言うべっぴんさん(美人)に出合おたそうな。

それからというもの常右衛門は、“寝ては夢、起きてじゃうつつの幻の”だったかどうか定かではないが、とにかく一目惚れをしたそうじゃ。そんで、どうしても自分の女房にしとうなって、口説きに行ったと。

そしたらお兼が答えて、「百晩ここまで通うて来たらおまさんの言うとおりにしちゃる。」言うたそうな。

そんで常右衛門は、次の日から笹山を越えてお兼の所へ通うことにしたそうじゃ。
今でこそ車があるが、当時のこと頼りになるのは自分の足だけで、それも険しい坂道で、片道約三時間はかかったであろうから、並大抵のことではなかった。

家族にも内緒で、仕事が終わるとすぐに出掛けて、朝方には誰にも気付かれぬように帰って来る毎日が続いた。

家族のもん(人)も、えらいぞうりがちびるがおかしいと思いよったと言うことじゃ。

ある日には、途中で子連れの猪に出合い、それを次の日おおかた言いかけて、ばれたらいかんので

「笹山には子連れの猪が………おりゃせんやろうかねえ。」

言うてごまかしたと言う話もあるそうな。

やがて九十九日通った晩のこと、お兼が「おまんさんは九十九日も通うて来たんで明日は来んでも来ることはわかっちゅう。」言うて常右衛門の熱心さに打たれて、めでたく結婚し、仲良く暮らしたいうことじゃ。

 

「土佐町の民話」より 池添好幸

 

土佐柴刈唄

無形民俗文化財  昭和四十一年五月十七日 町指定

《歌詞》

田肥ノー よしよやれ
よしよやれ た肥
ヨイショー ヨイショー
田肥よしよやりや ユホー
実がやどる
ハア ヤレショー ヤレショー (以上繰り返し)

来いとノー 誰が言うた
笹山こえて
ヨイショー ヨイショー
露に御袢の ユホー
紐ぬれた


来いでノー 来いでと
待つ夜は 来いで
ヨイショー ヨイショー
待たぬ夜に来て ユホー
門に立つ


鮎はノー 瀬に住む
鳥や 木にとまる
ヨイショー ヨイショー
人は情の ユホー
蔭に住む

朝のノー 露草に
刈り込められて
ヨイショー ヨイショー
鳴いて上るは ユホー
きりぎりす

柴刈れノー 草刈れ
やれ はげめ
ヨイショー ヨイショー
今年や米取ろ ユホー
嫁も娶ろ

俺がノー 土佐の
柴刈り男
ヨイショー ヨイショー
鎌の光でユホー
山へ行く

行きはノー 朝星
帰りは夜星
ヨイショー ヨイショー
昼は利鎌の ユホー
星が飛ぶ

土佐はノー よい国
南をうけて
ヨイショー ヨイショー
年にお米が ユホー
二度とれる

今年やノー 豊年
穂に 穂が咲いて
ヨイショー ヨイショー
道の小草も ユホー
米がなる

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「ドミニック」 ウィリアム・スタイグ 評論社

大好きなウィリアム・スタイグの一冊。
「ドミニック」はいつも何かやりたくてムズムズしている一匹の犬。ある日、気持ちを抑えきれなくなって冒険に出かけます。最初の分かれ道に立っていたワニの魔女に「自分の運命を知りたいとは思わないかえ?」と聞かれます。この魔女は『現在とおんなじくらいはっきり、未来も見える』ワニなのです。

ドミニックは「もちろん、ぼく、自分がどうなるんだろうと思いますよ。でもなにが起こるのか、それがいつ起きるのか、自分で見つけだすほうが、ずっとすてきだと思うんです。ぼく、びっくりするほうが好きなんです」と言い、冒険の道を選びます。

自分はひとりしかいないので、分かれ道に立った時にどちらかひとつの道を選ぶことしかできません。選んだ後に、もうひとつの道を選んだら今どうなっていたかなと考えることもあるでしょう。でも、どちらを選んでも自分自身の選択であることに変わりがないのです。前を向いて自分の選んだ道を歩いていくドミニックの姿は、何度読んでもグッときます。

鳥山百合子

 

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと一緒に、高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は「地図上3」の場所にある石碑についてのお話です。

 

(「高峯神社への道 その2」はこちら

 

2つ目の石碑を後にし、国道439号線から県道6号線へ入る。「瀬戸渓谷へ」と書かれた看板の方へと曲がり、くねくねとした一本道をとにかくまっすぐ進んでいくと、道の右側に3つ目の道しるべがある。

 

「従是 三宝山 四十丁」

 

「あ、ここ、ここ!」

道しるべは石垣に寄りかかるようにして建っている。道しるべの横は石段になっていて、山の上へと続く道の入口だけが見える。先は草だらけで見えない。2つめの道しるべからここへ道がつながっているのだそうだ。

 

「従是(これより)三宝山 四十丁 相川谷中」

 

「相川」とは、土佐町の米どころ。ここから車で30分はかかる。賀恒さんによると、相川の人たちがお金を出し合ってこの石碑を建てたのだそうだ。相川の人たちも高峯神社を大事に思っていたのだ。
丁は約109mなので、ここから高峯神社まであと4㎞ほどということか。

 

 

 

石碑の向かいには、こんな風景が望める。昔の人もきっと同じ山々を見つめていたにちがいない。

高峯神社はまだまだ遠い。

 

(「高峯神社への道 その4」へ続く)

 

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私の一冊

藤田英輔

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「最終版 間違いだらけのクルマ選び」 徳大寺有恒 草思社

現在までの僕の所有車の内、大半は中古車を購入し、そして乗りつぶしてきた。現在では車両の販売で確固たる地位を築いているD社の軽バン(1970年製)。1980年頃、妻が乗っていたのだが、素朴な脚車をずっと置いて持っておきたかったなあととても後悔している。

その頃より少し前、友人達の大半が高性能なかっこイー、クーぺタイプを購入し乗り回していた。

僕は車より他のことに金を使いたくて、車代が安く軽く(燃費が良い)、そして小さい(駐車しやすい)軽四を選んだ。

その車で高知市のある店のまるで従業員のように、営業日の開店時間には、その店のカウンターに座っていた。路駐なので特にサイドミラーやワイパーなどが曲がったり折れたりのトラブルがあったが、車が動く限り通い続けた。

あんなにも一所懸命に夢中になったこと(時)があったことを「良い経験をした」と現在では思う。

金や行動で父や友人に迷惑をかけたけれど、義務感にかられ達成感を感じる日々を過ごしたことで「ブレーキをかける」ということを学んだ。

『僕の車の購入の仕方』

①その時に払える金→②その頃の目的、使用の方法、その他(好きだということ他)を勘案し→③購入する(満足はしないが納得する)

“損得で計らない。何か夢中になれるもの(こと)を持つと良いよ”

藤田英輔

 

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土佐町ストーリーズ

土佐柴刈り唄 前編(高須)

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むかしむかし、まだ化学肥料のないじぶん(頃)には、五、六月になるとサッーと萌え出た、やりい(やわらかい)柴を刈って肥料として田んぼに入れよりました。

牛を使ってこなし、水を張った田んぼに柴を刈って来て入れ、鉈でこいつを二十センチメートルぐらいに叩き切りよりました。

田んぼの中でやったんで、下が泥ですろう。ボッシャン、ボッシャン頭から泥だらけになって叩き切るわけですらあ。

六月じぶんじゃったら、田んぼに柴を置いただけじゃなかなか腐らんですがねえ。
そんでオアシ言うて大きな障子の枠みたいに組んだ下駄をこしらえて、叩き切って拡げた柴をザンブリザンブリ踏んで行くわけですらあ。

柴刈りは男も女も家族総出でやりよりました。それから季節労働者を雇うたりもしよりました。
大栃の菲生(にろう:現在の香北町)あたりからもだいぶ来よったがねえ。

柴を刈るのも、田んぼで叩き切るのもどっちも重労働じゃった。刈った柴は、三束ずつくくって、六束をサス(突き刺し棒)で担うて来ましたのう。

一日刈る量は普通「一日六荷(一荷は六束)」と言いよったが、一反(約十アール)には二十荷ばあ入れよったろう。
よけい入れる場合もあって田んぼの水が見えんば入れることもありましたねえ。

こうした重労働の中で、「柴刈り唄」は、山のこっちでも向こうでもお互い励まし合うという格好で唄うたもんですのう。

「土佐町の民話」より 池添好幸

 

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私の一冊

石川拓也

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MAGNUM LANDSCAPE」Ian Jeffrey Phaidon Press

敢えて説明するのも気が引けますが、”MAGNUM”は1947年から続く国際的な写真家グループです。

創設したのは報道写真家のロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デヴィッド・シーモアの4人。(現在は50人が所属)

メディアや印刷技術の発達と共に、彼らの写真は新聞や雑誌に載って世界中を飛び回り、「いま世界で何が起こっているのか」という理解を人々が深めるための一助になりました。

この写真集はそのマグナムの写真家が撮影した珠玉の「風景写真」を収めたもの。ニュースではないもの、と言い換えてもいいかもしれません。

どれもが世界の美しい瞬間を切り取った美しい写真なのですが、ふと「ぼくたちはこういう写真を通して『世界はこういうもの』という理解を掴んでいるのかもしれない」とも感じます。

何が言いたいかというと、そうやって作られたイメージは「世界のように見える何か」であって世界そのものではない、ということ。

現実に対峙して世界を把握することが、写真が氾濫する現代では大切な気がします。

 

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笹のいえ

いねお

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このブログでも紹介した飼い猫おこめが、去年のゴールデンウイーク前に旅立った。一週間ほど食欲がなく、様子を見ていたが、体調が急変し、動物病院に連れて行ったけれど間に合わなかった。推定年齢8歳。まだまだ生きられたはずなのに。僕は、冷たくなった彼女の身体をさすりながら「ごめんな」と繰り返していた。

その後しばらく僕は、なんとなく心がポッカリと穴の空いた状態だった。気持ち的にはまだ喪に服していた数ヶ月後、友人から「友達が実家に戻らないといけなくなったので、猫の引き取り先を探している」と連絡が入った。最初は断ったが、飼い主さんと共通の友人知人が多いらしく、別ルートで数名からも声が掛かった。

SNSで猫の写真を送ってもらってビックリ。身体の模様や体型がおこめにとてもよく似ていた。

「これはもうご縁だな」と思ったし、子どもたちも新しい家族に大賛成。猫を受け入れることにした。

うちに来る前は「まるちゃん」という可愛い名前だったが、長女が「いねお」(漢字にするとたぶん「稲雄」)と呼びはじめたことから、急に硬派なイメージになってしまった。

名前が男らしくなっても、彼はとっても甘えん坊だ。

人を見つけると、「にゃーん」と近づいてきては足元にじゃれつく。あまりに足に絡まってくるので、よく踏まれたり蹴られたりしてる。そのうちに距離を置くのかと思いきや、今でも相変わらず身体を擦り付けに来る。

そして、食いしん坊。

朝はまだ暗いうちから「そろそろ、ご飯の時間だよ」と僕に話しかけてくる。ある朝のこと、時計を見ると4時過ぎ。流石にまだ早いと再び寝ようとすると、僕の頭を舐めてきた。猫特有のあのザラザラした舌で、僕の坊主頭を「ザリッザリッ」と舐めて僕を起こそうとする。同じ場所を何度も舐められると痛い。頭皮にも悪い気がする。

布団を頭から被ると、今度は障子に爪を立てる。障子紙を破られては堪らないと、渋々起床する僕。

「にゃ〜ん」と勝利の鳴き声をあげて、いねおは嬉しそうにご飯を頬張るのであった。

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私の一冊

藤田純子

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「その日の天使」 中島らも 日本図書センター

中島らもさん。天下の灘高の在籍中からいわゆる不良で、アル中、薬物中毒をはじめ、やることなすことやり過ぎで危ない人、愚かな人というイメージが強い人。周りの人たちに心配や迷惑をかけつつ52才で急死した。

しかし、彼に魅力を感じる人は多い。

頭の良さと感受性の強さからくる言葉の展開のすごさ。すさまじい読書量ゆえの博識ぶり。

親しく付き合うと傷つけられてしまいそうだけれど、ここまでのしょうがなさはある種、さわやか、カッコイイとも認めてしまう魅力があります。

この本はらもさんの生い立ちや、人生の様々の場面でのエッセイ集。どんどん読めてしまいます。

藤田純子

 

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと一緒に、高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は「地図上2」の場所にある石碑についてのお話です。

 

(高峯神社への道 その1はこちら

 

「石原郵便局の向こうにも、高峯神社への道しるべがあるよ」

!!!

郵便局の近くの道を今まで何度も歩いていたのに気づかなかった。ああ、見ているようで見ていないのだなあ、とあらためて思う。案外そういったことは多いのかもしれない。

「さとのみせ」に車を停め、かつて旅館だった「くらや」の前を通り、郵便局を過ぎると道が3つに分かれている。真ん中の細い道を、賀恒さんは迷いなく歩いて行く。

この道は通ったことがなかった。

 

それは人が一人やっと通れるくらいの道だった。はやる気持ちを抑えながらついていくと、少し先に大人の背丈くらいの石碑が見えた。

「右 三宝山 従是一里」

 

賀恒さんはそばに立ち、言った。
「ここです。この石碑が道しるべ。これが大昔からの、高峯神社への本道なのよ。」

石碑には「文政11年 子(ね)の年 右 三宝山 従是(これより)一里」と刻んである。「文政11年」とは、今から200年ほど前のこと、そして「一里」とは、約3.9㎞のことである。

 

 

その道しるべの先には、細い土の道が上へ上へと続いている。

石碑の上の方には手を押し付けた跡があった。親指以外の4本指が、高峯神社へ向かう道への方向を示しているそうだ。

「これが本道、ここが入り口。ここをずっと行ったら高峰神社よね。昔から歩いていくもんは全部ここを通りよった。昔の人がどれだけの努力したかようわかる、これ見たら。これが高峯神社への西石原からの入り口よ」

 

「時間はどれくらいかかるんですか?」と聞いてみた。賀恒さんは少し考えて「高峯までは、元気な足じゃったら一時間!」と言った。

この細い道が、本当にあの高峯神社まで続いているのだろうか?想像しようとしても、いつも途中で道が途切れてしまう。

でも賀恒さんには、この先に続く道が見えているのだ。

 

(「高峯神社への道 その3」へ続く)

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「食べ物記」 森枝卓二 福音館書店

私はこの写真集が大好きです。

世界中の食…、米、麦、野菜、肉、魚、保存食、市場…、世界中の人たちが料理したり食べたりといった食卓の風景が収められています。

子どもの頃から「美味しそうやなあ」と思いながらこの本を眺めては、世界はとても広いのだということをどこかで感じていたように思います。「行こうと思ったらどこへだって行けるんだ!」というワクワクが飛び出していくような感覚は今でも心の中にちゃんとあります。

この本をつくった写真家の森枝さんは、以前は戦争の写真を撮っていたそうですが、その仕事をするなかで最も印象に残ったことは「戦争という特殊な状況にあっても、人には日常の暮らしがある」ということだったそうです。
国境近くのゲリラ兵たちが畑で野菜を育て、難民の人たちは着の身着のままであっても多くの人が鍋だけは持っていた…。
食べることは、生きることと切り離すことができないのです。

また、食べることは楽しみでもあります。
今日の食事は何にしようか?どんな風に作ろうか?それとも食べにいこうか?誰と食べようか?

今、こうしている間にも世界中のどこかで、食べるものを育て、食事を作り、食べている人たちがいます。
頭の片隅にそのことを置いておいたら、毎日の食卓がいつもと少し違った風に見えてきます。

鳥山百合子

 

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