笹のいえ

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そら豆

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去年までそんなに興味なさそうだったけれど、今年はそら豆が子どもたちに人気。

「おじぎしてるさやが、おいしいそらまめだよ」
と伝えると、ここ数日せっせと畑に行き、採りごろのそら豆を収穫してくれる。

さっそく炭を熾して、さやのまま焦げるまで焼く。
アチチと言いながら、さやを剥いて、ホクホクのそら豆を皮ごと口に入れると、

「あま〜い!」

どんどん減っていくそら豆に危機感を覚えて、父ちゃんの分は?と聞くと、どうぞ、とひとつぶだけ手のひらに載せてくれた。
育てたのは父ちゃんなんだけどと思いつつ、 感謝していただくと、本当に甘い。ちょっとしたお菓子みたいだ。

お辞儀する前の若いさやは上を向いて成長する。「空を向いて生るから、そら豆と言うんだよ」何年も前に誰かに聞いたなあと、毎年この時期が来るたびに思い出す。

作付けが少なかったこともあって、今シーズンは子どもたちの食べる分で終わってしまいそうだけど、来年はたくさん作って自家製豆板醤をつくりたいなあ。

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笹のいえ

春の雨

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この日は午後から雨予報だった。

西の空から灰色の雲が近づくと、湿度が上がりはじめて、ひんやりとした風の中に雨を感じる。

カエルたちがケロケロと鳴きはじめる。

彼らの鳴き声雨予報はかなりの精度なので、聞き逃してはいけない。

「そろそろだな」とお昼ご飯もそこそこに、洗濯物や日干ししてあるものを家の中に取り込んでいると、そのうちにポツポツと来た。

雨が降ると、いろんな匂いが漂ってくる。

水の匂い 山の匂い 土の匂い それから、アスファルトの匂い

仕事の手を休め、深呼吸をひとつして、雨の音に耳を傾ける。

頭の中で、予定していた作業を雨仕様に組み立て直す。

降りはじめのシンプルな雨音が徐々に重なり合い、本降りになってきた。

雨が落ちる音に混じって、別の音がする。何が鳴っているのか考える。

「あ、アレ仕舞い忘れてる」と気が付いて、片付けに走る。

残念ながら雨読晴耕とはいかなくて、雨の日には雨の日の作業がある。でも、雨の音をBGMに普段後回しになりがちなことをするのは良い気分転換だ。

大雨が続くと、山水のパイプが詰まったり、崖が崩れたりして、大ごと(大変なこと)になることがあるので困るけれど、適度の雨は、ひとにも田畑にも心地が良い。

いつの間にか、カエルたちの鳴き声は大合唱になっていた。

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笹のいえ

ショータ君

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本名、川原将太。通称「ショータ君」は、アーティスト。

もともと主に絵を描いていたが、土佐町に住みはじめてから縁がつながり、使われなくなった陶器工房を譲り受けたのがきっかけで、独学で器つくりもはじめた。焼き上げる度に彼の技術は向上し、作風も変化している。

そんなショータ君は、子どもと遊ぶのが大好きだ。

それも、全力で。

「危ない」とか「やっちゃダメ」とかすぐ言う大人たちとは違う。

だから、子どもたちも彼のことが大好きだ。

ショータ君は、「子どもマグネット」だ。

彼の姿を見つけると、子どもたちがどんどん吸い付いていく。

今日はどんなことをして遊ぶのか、新しい遊び道具はどうやって使うのか、みな笑顔になって、歓声をあげて彼と遊ぶ。

笹のいえにもよく遊びに来てくれる。

うちの子たちは彼の軽トラを覚えていて、見つけると一目散に走り寄っていく。次男なんて、親の名前より先に「しょーた」と言えたくらいだ。

ある日彼が「あの場所ちょっと使わせてください」と、山の斜面にある、草と竹だらけの元畑を指差した。「どうぞどうぞ」と言ったら、数日後には草が刈られ、丸太を運び込んでやぐらが立ち、木の枝を利用したブランコができ、アプローチに階段が、あれよあれよと作られていった。

「秘密基地」と名前がついたこの場所は、ショータ君と子どもたちの間で「秘密の」遊び場となっている。

好奇心が服着て歩いてるような彼は、アーティストとしての本業を続けつつ、子どもと遊び、その場をショータランド化している。そして、彼の磁力はいまや大人まで及び、一緒に遊ぶ輪も広がってる。

そして、ショータ君の魅力以上にすごいな、と思うのは、こんな彼を支える地域の気質だ。

一般的にひとの数が少ない地域ほど、彼のような「周りと違うひと」は中に入って来にくい。けれど、住人4000人足らずのこの町で彼が生きていけるのは、地元の懐の深さが大きいと僕は思ってる。

今日も山々に、ショータ君と子どもたちの笑い声が響く。

 

写真提供:中澤ミツル

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お茶

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僕は珈琲好きだが、実はお茶も好き。正確に言うと、「好きになった」が正しい。
土佐町に住むようになってから、お茶をよく飲むようになった。理由は簡単、美味しいからだ。

お茶と言えば静岡が有名だけど、ここ嶺北土佐町もお茶を栽培してるってこと、引っ越してから知った。
敷地内で茶を栽培してる家庭も珍しくない。
笹でもかつてお茶を栽培していたようだ。田んぼの法面や畑、石垣のあちらこちらに数株残ってる。

当初は茶の木の手入れがよく分からず、また草刈りの度に枝を切り刻んでしまって、収穫することはなかった。
けれど、放置された茶畑再生のイベントに何度か参加し、お茶の美味しさと作り方を教わった。それから、少しずつ茶の木の管理をはじめ、新緑の季節に新茶を収穫するようになった。

土佐町のお茶のつくり方は「炒って揉む」のが主流だ。

うちは釜戸で葉っぱを炒るので、火加減が難しい。強いと焦げるし、弱いといつまで経っても炒りあがらない。それでも、徐々に香ってくるお茶の香りを楽しみながら、この季節の到来を実感する。

時期には直売所などで、いろんな種類の地元茶が手に入る。これもオススメ土産のひとつだ。

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笹のいえ

山の番をするひとたち

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小規模の林業を営む友人ばたやんのお手伝いをしに、土佐町瀬戸地域の山に入った。

笹のいえは周囲を山林に囲まれ、以前から手を入れたいと考えていた。経験のため一緒に作業をさせてもらえないかと連絡をしたところ、心よく受け入れてくれた。後で考えると、花粉症の僕がなぜこの時期の杉山に入ろうとしたのか。人生って不思議、というより単に考えが浅いのだった。

ばたやんは地主さんから山の管理と木の伐採などを頼まれている。

間伐(木を間引くこと)や木の運び出しには、チェーンソーなどの専用道具や重機を使う。使い方を間違えれば大怪我したり最悪の場合死に至ることもある。そんな現場へ素人の僕を迎えてくれたのは、ばたやんにとって、きっと大きな決断だっただろう。事故が起これば、組織の代表である彼の責任が問われるし、信頼や仕事を失うことにもなりかねないからだ。しかし、そんなことはおくびにも出さず、いつでもおいでと言ってくれる男前なヤツなのだ。

初日、作業は僕の描いていたイメージとだいぶ違っていた。

木をダーっと切って、トラックでバーっと運んで、次の山へGO!というように、どんどんこなしていくのか思っていたが、実際はとても地道な作業の連続だった。

木の状態を見極め、運び出すためにどちら側に倒せば効率が良いのか、より安全に行うにはどういう手順を踏むべきか。一本の木を切るごと、運び出すごとに最適な方法を考える。また、刻々と変化する天候に気を配り、費やす人件費や時間的コストなど、流動的な状況を常に理解していないといけない。

切るべき木が何十本とある中で、これは大変な集中力と体力が必要とされる。

作業は二三人で行うことが多い。そして、その人の経験に合わせた役割が決まっている。チェーンソーや重機の騒音で会話はほとんどできず、ホイッスルや身振りで意思の疎通をする。最初は僕の緊張もあってぎこちなかったが、こなすごとにチームの動きにまとまりが出てくる。相手に対して、次第に信頼が生まれていくのが心地よい。

とはいえ、慣れない僕にとって、なかなかハードな体験だった。まず歩き方がわからない。杉の木が生えている急斜面には笹で覆われていて、一歩ごとに足を取られる。手にはチェーンソーやワイヤーを持っているため、体制を変えることもままならない。ほんの数メートル先に移動するだけで時間が過ぎ、息が弾む。しかし焦りは事故につながる。一緒に働く仲間も「急がないでいいよ」「大丈夫?」と声を掛けてくれる。

僕が任された仕事は確認さえしていれば危ないことはなかったが、それでも一日が終わるころにはクタクタになった。とにかく邪魔にならないことを考えて動くだけで精一杯だった。

休憩中、林業にまつわる話をたくさん教えてもらう。

大型林業と小規模(自伐)林業のこと、生業としての林業の現状、山主さんとの関係などなど。

どれも僕の知らない世界だ。

「子どもや孫の時代を見据えて、いま山をどう管理するのか。次世代に繋いていく環境を残したい」と話してくれたばたやん。儲かる儲からないが最優先される経済社会で、自分がいなくなったその後のことまで考える職業がこんな身近にあったことに、はっとさせられた。そして、そんな夢を語る彼と一緒に仕事ができた数日間は、とても豊かな時間だった。

今夜、もう一回、「WOOD JOB!」観よ。

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くんくん(後編)

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前編

化学物質過敏症とひとくちに言っても、その症状には個人差がある。ある物質に対して近づけない人がいれば、全然大丈夫な人もいる。そのときの体調によっても許容範囲が変化するらしい。いままで平気だったのに、突然症状が出ることもある。実際に自分がどう感じるか、その場になってみないとわからないことも多い。

ある飲食店に出掛けたとき、彼女だけ建物に入ることができず、ひとり外で食べたことがあった。誘った僕らは申し訳ない気持ちだったが、彼女は慣れた様子で、家族旅行するときも屋外で食べさせてもらうことや自炊、車中泊は珍しくないと話してくれた。

日を追うごとに地域での知り合いが増え、笹ファミリーの一員として周りに認知され、溶け込んでいった。くんくんの症状を知った友人たちは、彼女を理解し、有難いことに、そのままを受け入れてくれた。日々の生活で任せられることも多くなり、家事はもちろん、その合間に長女の宿題をみたり、泣いている末っ子のご機嫌を取ったり、頼もしいお姉ちゃんといった感じだった。

滞在中16歳になった彼女は、原付免許の取得したいと考えた。試験センターに下見に行ったところ、試験会場となる建物内に長時間いるのは難しかった。職員に理由を話し、普段使っていない小さな部屋で窓を開けっ放しにして、扇風機を回す対策を取ってくれることになった。マニュアル通りが当たり前の公的な施設のとしては、人間味のある対応ではないだろうか。同行したご両親の粘り強い交渉も功を奏したのだろう、その行動力も素晴らしい。その後無事免許を取得し、原付バイクに乗れるようになった彼女。さらに行動範囲を広げ、毎日の暮らしを楽しんでいた。

そしてあっという間に11ヶ月が過ぎた。予定より早い期間だったが、里帰り出産するうちの奥さんに合わせた形となった。笹を離れる前日に友人たちを招いて、お別れ会を開いた。たくさんのひとがやって来て、彼女と時間を共有し、別れを惜しんでいた。その様子をみていて、彼女を受け入れて本当に良かったと思った。

彼女のことをよく知らない人は、症状を聞いて「可哀想に」と言う。正直、僕も最初はそう思っていた。でも、彼女と一緒に暮らし、日々を淡々と、そして楽しみながら過ごしている様子を身近に見ているうちに、そんな感情はもうどこかへ行ってしまった。もちろん症状が治ったり軽減することを望む。しかし、自分の在る状態を受け入れ、そのときできることをやる。それは、僕らとなんら変わりない。

くんくんは今後、自分に合った環境や場所、家を探す旅に出るそうだ。

たくさんの可能性を持った若い彼女にエールを送りたい。

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笹のいえ

くんくん(前編)

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笹のいえに約11ヶ月間滞在していた子が、3月のある日に笹を卒業した。

満月(みつき)さんは16歳。あだ名は「くんくん」。まだ赤ちゃんのとき、名前を呼ばれると自分で「みつき」と言ってるつもりで「くぅんくぅん」と返事したので、以来こう呼ばれているとか。

土佐町に移住してきた知り合い家族を訪ねてやって来て、笹のいえにも泊まってくれたことからご縁がはじまった。

ここの生活を気に入ってくれた彼女は、中学を卒業するころ手紙をくれた。そこには、笹で一年間暮らしたいと手書きで丁寧に書いてあった。その字から彼女の想いが溢れている気がして、心がじんわりと温かくなったのを覚えてる。

それまでも何度か笹に遊びに来てくれたので、子どもたちは彼女に懐いていたし、田畑の経験もある。料理上手だし、うちら的には大歓迎。が、ひとつ考えなくてはいけないことがあった。

彼女は、化学物質過敏症なのだ。

ケミカルなものに身体が反応して、気分や悪くなったり、体調不良になったりする。

例えば、化学的な建材が使われているは建物には入ることができない。香料や除菌剤入り洗剤や柔軟剤で洗濯された服を着た人には近づけないなど。

繁盛はしていないけれど、いちおう「宿泊業」な笹のいえにはいろんな人の出入りがある。彼女の苦手な香料を使用した服を着た人もやって来るだろう。お客さんに「その服ではうちに泊まれません」なんて宿はない。そもそも、化学物質過敏症のことを全く知らなかった僕は、一緒に暮らせるのかどうかもイメージできなかった。

それでも、ここで暮らしてみたいという彼女の強い意志を受けて、僕らも「どうなるかわからないけれど、これもご縁だし、とりあえずやってみよう」と決めた。

一緒に住みはじめてみると、当たり前だけど、普通の子と変わらない。いや、それ以上だった。薪の扱いには慣れてるし、家事もこなし、子どもの相手もドンとこい。畑や田んぼの作業では効率的に動き、笹の暮らしにピッタリだった。

後編へつづく)

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椎茸栽培

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母屋の裏山の一部はもともと段々畑だったのだが、その後、現金収入が見込まれる椎茸栽培のために原木となるクヌギの苗を植えたそうだ。それから何度か伐採しているらしいが、今は十年以上成長したクヌギがたくさん立っている。母屋のすぐ裏にあるので、幹があまり太り過ぎても伐採が難しくなるし、落ち葉が雨樋に溜まるので、大家さんに相談して数本切らせてもらった。

せっかくなので、僕も椎茸の原木を作ることにした。

木を切ったら葉が落ちるまで放置し、1mほどに長さに切って小口にヒビが入るまで乾燥させた後、椎茸菌の駒を打ち付けていく。

まず林から木を運び、専用のビットを取り付けたインパクトドライバーで穴を開け、種駒を木槌で打ち込んでいく。駒はホームセンターや森林組合などで手に入る。椎茸以外にもナメコやヒラタケなど数種類ある。

今年は2,000個近い駒を打ち込むことになった。

穴開けて、駒打って、、、果てしないひとり作業になるはずだったが、ありがたいことに助っ人数名がお手伝いに来てくれた。駒打ち作業は子どもたちが気に入ったようで、飽きるまでトントンしていた。

ほだ木(菌打ちをした木)は風通しの良い日影に横積みしておき(←イマココ)、小口に白い菌が見えたら、収穫しやすいように立てかける。

決して楽な仕事ではないが、これで翌年の秋には椎茸が採れるようになる。木の太さや種類によるが、二年から三年間、春と秋に収穫できる。

この地域では椎茸栽培が身近だ。自家栽培している方は多いし、椎茸農家さんもいる。山道を歩いていると、そこここでほだ木がある。旬になると、地域の道の駅やスーパーでパック詰めされた原木椎茸が売られる。

新鮮な原木椎茸の旨さは栽培者の特権だ。はじめて食べたときは、その美味しさにびっくりした。旨味がギュッと詰まってて、滋味がある。採れすぎても天日乾燥させれば、長期保存できる。

今、去年菌打ちしたほだ木から椎茸が出てる。まだ小さいと思っても、雨や朝露で一気に大きくなるので、小ぶりのうちに収穫しておく。採り忘れて大きくなりすぎてしまったものは、バター醤油でステーキ風にして焼くと、まっこと美味だ。

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笹のいえ

花粉症

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2月が終わろうとするある日、鼻や目の奥がピリピリとしだして「ああ、今年もこの時期か」と思う。

花粉症とは大学時代からの付き合いだ。僕は杉花粉に反応するので、杉の無い小笠原諸島父島に住んでいたとき以外、毎年この季節は気持ちが重い。

その僕が、どうして杉に囲まれたこの地域に引っ越してきてしまったのか。人生って不思議だ。

発症当初、酷い時は目と喉の痒さで目が覚め、薬なしではいられなかった。しかし、「食べるもので体質が変化する」と知ってから、それまで毎日のように食べていた乳製品や甘いものを控えてみたら症状が軽減された。食事が菜食寄りになったのも影響があるかもしれない。個人差があると思うので、あくまでも僕の場合だけど。今も相変わらず目の痒みと鼻水が出るのだが、以前よりだいぶマシになった。薬を飲まず、マスクをするくらいでなんとか過ごしてる。

笹のいえの前の山は杉檜が植林され、風が吹くと黄色い花粉が放出し、霞がかかったようになることもある。目をショボショボさせながら、あの木を全部伐採してしまいたいという気持ちは花粉症の方なら理解してくれるだろうか。でも、木を切ると花粉を頭から被ることになるからやっぱり止めておこう。

花粉症に懸かる理由を調べていると、昔ほとんど耳にすることのなかったこの症状が蔓延しているのは僕ら現代人の免疫力が下がっているから、という記事を見つけた。免疫力のほとんどは腸でつくられるから、腸内環境を整えるのが有効らしい。小食にしたり、食事の回数を減らしたりすると調子が良いのは、免疫が上がるからなのかもしれない。

お酒もNG。呑むと途端に目や鼻の粘膜が充血し悪化する。毎日の晩酌が生きる喜びの僕には、これが一番堪える。飲みたいのに、飲めない。

ひたすら我慢して、花粉が去るのを待つしかない。

普段の食べ過ぎ飲み過ぎを反省し、身体に向き合う数カ月間。これはこれで必要な時間なのだろうなあと納得することにしている。

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笹のいえ

蔵の解体

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母屋から風呂とトイレの小屋を挟んで、二階建ての建屋がある。

かつて、一階を牛小屋、二階を子供部屋として使っていたそうだ。その佇まいから、僕らはなんとなく「蔵」と呼んでいた。

たいそう大きな建物で、使われている材も立派。柱は五寸以上のものもあるし、棟木は一抱えもあるような松の木だ。

正確な築年数は不明だが、50年以上経っているだろう。重機などの機械が現代ほど発達しておらず、人力に頼る部分が多かった時代に、これだけの材木を製材し、運び、家を建てるのはちょっと想像しづらい。

しかし、人が住まなくなってから何年も放置され、僕らが引っ越してきたときにはだいぶ傷みが進んでいた。朽ち落ちた材には錆びた釘が打ってあったり、雨風で瓦が落ちてきたりすることもあり、子どもが近くで遊んでいることを考えると、なるべく早く壊す必要があった。

業者に頼み、機械の力で一気に壊す手もあった。でも、材を取り外して再利用したい、無理なら分別して後処理をちゃんとしたいと思っていた。そして、なぜかこの蔵に対する畏怖の念のようなものを持っていた僕は「自分の手で丁寧に解体したい」とも考えていた。とはいえ、作業には危険を伴うし、解体なんてしたことのない、しかも高いところが大の苦手の僕がひとりで作業するモチベーションもない。どうしようどうしようと思いつつ、4年が経った。

ふと思いついて、知り合いの左官さんに相談してみると、どうにかやってみよう、というありがたい返事が来た。彼に棟梁をお願いしたのは、慎重で無理をしない人柄に安全第一に作業を進めてくれると確信していたからだった。なにより、これまで土壁や釜戸つくりなど一緒に作業して、気心が知れている。

友人二人にも声掛け、はたして作業ははじまった。

まずは屋根から。

足元の悪い瓦の上を踏み抜かないように歩きながら、瓦を落としていく。

状態の良いものは積んで取っておき、割れたのは軽トラに積んで、隣町の処分場へ何往復もして運んだ。

瓦の下に敷かれていた土はそのまま地面に落とし、必要なら後で田畑に入れる。ルーフィングの役目していた大量の杉の皮は焚き付けに使う。建具も外し、ストックする。

そして、いよいよ構造材が露わになった。

年月によって建物自体が歪んでいるし、腐っている箇所もあるため、どういう順番でどの材を外していくか、ひとつひとつ確認しながら作業する。ときにチェーンソーで材を切り、ときにロープで柱を引っ張りしながら、少しずつ建物が細く小さくなっていく。

驚いたのは、木が保つ粘りだ。

ボロボロの建屋だったが、ホゾで組まれた材は、加わった力を四方に逃がすようになっていた。四人以上の大人がロープで引っ張っても捻ってもビクともしない。前述したように、可能なら材を綺麗に取り外したいと思っていたが、材自体が重いこと、がっちりと組まれているため手で外すのは困難なことがわかってきた。結局、安全を一番に、材の再利用は諦め、解体を進めることにした。

五日間の作業の末、どうにか無事に終えることができた。目の前には、たくさんの材が山となった。二三年は焚き物に困らなさそうだ。無事故で解体させてくれた蔵に、皆で感謝した。

在来建築の構造や技術に感心したり、驚いたりすることが多かった。昔の大工さんは、木の性質を理解し、材となった木の上下や微細なねじれさえも考慮し家を建てたそうだ。プレカットが主流の近代建築とはだいぶ異なる。また、験(げん)を担いだり、山や家の神様にお祈りをして作業の安全を願った。蔵に触れながら、当時の空気を吸っているような、タイムスリップしたような不思議な感覚を覚えることがあった。

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