とさちょうものがたり

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

藤田純子

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「花火の図鑑」 泉谷玄作 ポプラ社

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嶺北高校カヌー部の挑戦

Vol.2 ラヨシュの話

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「私が学生のころ、地元にハンガリーの代表チームが練習にやってきたことがあった。街のみんなが選手たちにサインをねだったものです。もちろん私もね! 私にとっては代表チームの選手はヒーローのような存在でした」

 

カヌーイストとしてのラヨシュの経歴はじつに華々しい。2001年に4人乗りのK-4 1000mスプリントでハンガリーチャンピオンに輝き、2006年には世界大会で優勝した。子供のときに憧れていたヒーローに、自分がなったわけだ。

 

「背中を痛めてしまって、オリンピックには出られなかった」が、その後もトルコの代表チームに請われてパドルを漕ぐなど、ハンガリー国内外で活躍した。2015年に現役を引退し、2016年には韓国代表チームのコーチに就任。代表チームに帯同し、韓国じゅうをまわった。

 

さめうらダム湖にて練習するラヨシュと佐田野(さだなお)

 

「韓国でコーチとしてのキャリアをスタートしたわけですが、代表選手というのは多かれ少なかれ自分のスタイルを持っている。練習方法にしても、パドルの漕ぎ方にしてもね。チームとしての指導方針もカッチリ決まっていたし、私が出る幕は少なかったなあ……。

 

韓国料理は口に合ったし、文化的にも興味深かいものはあったけど、家族と離れてのホテル暮らしにも疲れたし、いったんハンガリーに帰ることにしたんです」

 

「日本でコーチをしたいと思っていた」

むずかしさを感じた1年だったが、コーチングへの熱意は消えなかった。

「ハンガリーでコーチをやることも考えたけど、韓国で1年やってみて、外国で暮らすことのおもしろさも体験した。それならば、次は隣国の日本に行ってみたいと思ったんです。それで日本カヌー連盟のスタッフに選手時代からの知人がいるので、『日本でコーチの仕事がないか?』と尋ねてみた」

ラヨシュが日本行きを模索していたのと時を同じくして、嶺北高校カヌー部の生徒たちを指導してくれるコーチの招聘を、土佐町関係者が日本カヌー連盟に打診していた。

タイミングがぴったり重なったのである。

(敬称略)

つづく

文:芦部聡 写真:石川拓也

 

書いた人:芦部聡

1971年東京都生まれ。大阪市在住。『Number』『NumberDo』『週刊文春』などに寄稿し、“スポーツ”“食”“音楽”“IT”など、脈絡なく幅広~いジャンルで活躍しているフリーライター。『Number』では「スポーツ仕事人」を連載中。

 

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私の一冊

藤田英輔

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「思い出トランプ」 向田邦子 新潮社

 

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7月30日のパクチーフェス詳細はFBページからご覧ください

 

今から12年前、ある男が「パクチーはメディアだ!」と言いました。

パクチーを通して世界の人と人はつながれる、その言葉は当時の日本ではとても新しい発想 でしたから、すんなり理解できる人間は周囲にそう多くはいませんでした。

それでもその男はめげることなく、パクチーの楽しみ方を研究し尽くすグループ 「日本パクチー狂会」や種の普及のための「パクチー銀行」を設立、コツコツとパクチー好き とつながることでパクチーそのものを日本に広めていきます。

そして2007年11月、東京の経堂という町に「パクチーハウス東京」をオープン。

世界初のこのパクチー専門店は周囲からは「馬鹿げている」「ありえない」「危険すぎる」 などと言われながらのオープンでした。

パクチー専門店ということに加え、このお店が掲げる理念も非常にユニークで斬新なものでした。

□交流する飲食店(相席推奨・お客もスタッフも分け隔てなくよく話す)

□お客さまは神様ではない。 もてなすべき友人である。

□世界中からお客さんを集めるため「商圏二万キロ」を標榜(ひょうぼう)

そうしてスタートした「パクチーハウス東京」は周囲の予想を裏切り、いつしか予約困難なほど の繁盛店に。

世の中は変わり、2016年度の「今年の一皿」にはパクチー料理が選ばれ、パクチー を加工したインスタント食品を数多く目にするようになり、パクチーハウス東京のフォロワー とも言うべきパクチー専門料理店が日本中に現れることとなりました。

これは自然な世の中の流れではなく、「パクチーはメディアだ!」と12年前に言い切った この男がそもそもの仕掛け人であることは、実はあまりよく知られていません。

その男、パクチーハウス東京店主 佐谷恭 (さたに・きょう)と スタッフが7月30日(日)、土佐町黒丸にやってきます。

日本中のパクチー料理店の本家本元元祖オリジナルが瀬戸川渓谷の 黒丸にて、1日限りのパクチーフェスを開催! 黒丸そして高知県土佐町の新鮮な地元食材とパクチーのコラボな1日です!

 

そして7月10日(月)

RKC高知放送の午後の番組「〜今日も元気に〜「ぱわらじっ!!」

にパクチーハウス東京店主・佐谷恭が出演!

「1日限りのパクチーフェス!!@土佐町黒丸」の告知をしてくれました。

佐谷恭、トークも上手い!

ぜひ以下のリンクから視聴してください!

 

石川拓也

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私の一冊

川田康富 

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「町でいちばんの美女」 チャールズ・ブコウスキー 青野聡(訳) 新潮社

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私の一冊

藤田純子

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「穏やかな死に医療はいらない」 萬田緑平 朝日新聞社

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私の一冊

藤田英輔

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「鬼平犯科帳 四」 池波正太郎 講談社

 

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私の一冊

近藤泰之

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「あのころはフリードリヒがいた」  ハンス・ペーター・リヒター(作)上田真而子(訳) 岩波少年文庫

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メディアとお手紙

佐々井秀嶺さん新聞記事

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2017 年6月 21日、インド仏教徒の指導者である佐々井秀嶺さんが土佐町で講演をされました。

 

佐々井秀嶺さんが土佐町に来てくださったのは、この新聞記事がきっかけでした。

2016年11月28日の高知新聞。

土佐町在住の写真家、石川拓也の新聞連載『インド!インド!インド!』。
その中の一話です。共同通信社から配信され高知新聞はじめ多くの地方紙に掲載されました。

この記事を読んだ石川の知人が、2017年6月に佐々井さんが日本に帰国することを教えてくれました。「土佐町に来てもらえませんか」と南天会を通じて連絡を取ったところ、佐々井さんは快諾してくださいました。

石川がインドで佐々井さんを訪ねたこと、新聞連載に書いたこと、それを読んだ友人が連絡をくれたこと、来てほしいと伝えたこと。
そのひとつひとつの出来事がつながって、実現した講演会でした。

インドに生きる日本人僧侶・佐々井秀嶺

インドのナグプールは、「インドのヘソ」と呼ばれている。インド亜大陸のほぼ中央に位置しているからだ。

この街は、インド仏教信仰の中心地。ヒンズー教徒が圧倒的に多いインドだが、一説では仏教徒も1億人以上存在しているという。商売や人間関係のために表立って言えない「隠れ仏教徒」を合わせると2億人にも達するとも。

人口も定かではないこの国で、正確な仏教徒の数を把握するのは無茶な話らしいのだが、「とにかく多い、そして増え続けている」ということのようだ。そしてそのインド仏教界のリーダーを、なんと日本人僧侶が勤めている。その名を佐々井秀嶺さんという。大勢のインド人から絶大な尊敬を受ける人物だ。

佐々井さんは、インドに来てすでに50年近く。このナグプールで仏教徒のため、そして不可触民(ダリット)と呼ばれカースト制度により差別を受ける人々のために活動してきた。信者たちの寄付によって建った小さなお寺を本拠地に、仏教徒の代表としてインド国中を飛び回るような生活をしている。

約束もなく訪れた私を、佐々井さんは近所の友人でも迎えるかのように招き入れてくれた。

1988年から国籍上はインド人の佐々井さんも、日本のことはとても気にしているという。

特に福島第1原発の事故がどのような状態になっているかを聞きたがった。日本がインドに対して原発を輸出する計画が進行中で、そのことをとても憂慮していた。

寺からの帰り道、インド人の若い女性から「ジェイ・ビーム!」と話し掛けられた。インドの仏教徒の挨拶だ。続けて彼女は「シューレイ・ササイ!」と笑顔で言った。

佐々井さんの名は当地で挨拶のようなものになりつつある、と言ったら言い過ぎだろうか。

石川拓也(写真家)

 

 

 

講演会の前後を通じて、高知新聞嶺北支局の森本敦士さんが3回にわたって記事を書いてくれました。

・1回目   2017 年6月 11日

印の邦人高僧21日講演

土佐町「不可触民」ら守る

[嶺北]日本人でありながらインドで最も影響力のある仏教指導者といわれる佐々井秀嶺さん(81)が21日、土佐郡土佐町田井の町農村環境改善センターで講演する。佐々井さんの帰国に合わせ、町内の有志が呼び掛けて実現した。公演を前に佐々井さんを知ってもらおうと、14、15日、同町内で足跡を紹介する試写会も開く。

佐々井さんは岡山県出身。タイ留学を経て1967年からインドで暮らしている。88年にインド国籍を取得し、2003~06年には政府の少数者委員会の仏教徒代表委員も務めた。

仏教の祖国インドでは現在、ヒンズー教徒が大多数。仏教徒は少数派だが、それでも一説には1億人ともいわれる。近年は、ヒンズー教のカースト制度の最下層に置かれ「不可触民」と呼ばれて差別されてきた人々が仏教に改宗する動きが広がっており、佐々井さんはその運動の中心にいるという。

町の地域おこし協力隊で写真家の石川拓也さん(42)が3年前、インドを訪れた際に佐々井さんを取材し、昨年、本誌連載で紹介。その縁で来高が実現した。

21日は「現代日本人が見失ったもの」と題し、午後7時から講演。参加費は無料。

試写会は14日が同町土居の中村集会所、15日が町農村環境改善センターで、いずれも午後7時から。石川さんがインドで取材した際の写真などを用いて紹介する。

(森本敦士)

 

・2回目   2017 年6 月23日

ブッダは平和の原動力

印仏教高僧 佐々井さん講演 土佐町

[嶺北]日本人でありながらインドで最も影響力がある仏教指導者といわれる佐々井秀嶺さん(81)が21日、土佐郡土佐町田井の町農村環境改善センターで講演した。佐々井さんは非暴力によってインド仏教の再興を目指しており、「ブッダは平和を建設する原動力。命を尊重し、お互いに仲良くやろうと真剣に話し合えば、必ず未来への道が開けてくると信じている」と約220人の来場者に熱く語り掛けた。

岡山県出身の佐々井さんは1967年、修行僧として仏教発祥の国インドに渡った。以来、ヒンズー教カースト制度の最下層に置かれる「不可触民」を、仏教徒に改宗させることで差別のくびきから解放する活動などを続けている。88年にインド国籍を取得した。

講演では主に自らの歩んだ道のりを振り返り、インドでの日々や信念については、来場者との一問一答に応じる形で語った。「どうして、苦しみながらインドにいる道を選んだのか」などの問いに、佐々井さんは「(夢のお告げで)龍樹菩薩から使命を受けた。インド仏教徒の奴隷となりたい」「インドの仏教徒は貧しい。そういう皆さんと、苦しみも悲しみも一つにしている」などと答えた。土佐清水市から訪れた田中あづささん(42)は「戦後からタイムスリップしてきたような方。苦しみの重さや理屈ではないエネルギーが伝わってきた」と話していた。

佐々井さんは22日、同町田井のみつば保育園を訪問。園児と触れ合い、「子どもは伸び伸びとしているのがいい」と顔をほころばせた。京都や東京などを巡り、7月8日に再びインドに戻るという。

(森本敦士)

 

・3回目  2017 年6 月28日

 

講演で来高の印高僧 佐々井秀嶺さんに聞く

インドで最も影響力がある仏教指導者といわれる佐々井秀嶺さん(81)がこのほど、土佐郡土佐町田井を訪れて講演した。

一説に、1億人ともいわれる同国仏教徒に支持される佐々井さん。講演とインタビューを通して、飾らない人柄、81歳にしてなお衰えない情熱が伝わってきた。(森本敦士)

土佐町の地域おこし協力隊で写真家の石川拓也さん(42)が3年前、インドで佐々井さんを取材した後で講演が実現。佐々井さんは初来高といい、高知市内の古書店や竹林寺、桂浜も訪ねた。

「桂浜は押し寄せてくる波がすごくて勇壮だね」「インドでも村田英雄の『竜馬がゆく』をいつも歌ってたんだよ」と笑う。

土佐町に着くと「農村の風の匂いがするなあ。わが古里(岡山県新見市)に帰ったようです」としみじみ話した。「東京は、人が満員電車に乗って『人間機械』のようになってしまって哀れだなあと思います。こちらは伸び伸びしている。年寄りは多いけど、人間が自由だなあ」

夕食の接待を受け、アユの塩焼きに目を輝かせた。「古里の高梁川って小さな川でアユをついてたんですよ。それから50~60年、アユは食べてなかったなあ。心のこもった料理がほんとに嬉しいですよ」と頭からムシャムシャと頬張った。

25歳で出家したが、新聞配達をしながら大学で仏教を学び、一方で浪曲師や易者にもなるなど奔放だった佐々井さん。1967年に渡ったインドで転機を迎えた。夢に龍樹菩薩が現れ、「速やかに南天竜宮城に行け」とお告げを受けたという。南天竺(インド)の中部の都市、ナグ(竜)プール(城)と解した。

ナグプールでは当初、布教活動をしていると石を投げられたり、衣を剥ぎ取られたりしたことも。断食行などを通して徐々に信頼を勝ち得ていったという。「使命を受けた人間は断じてやらんといかんから、インド仏教再興の道を泣きながら歩んできた」と明かす。

インドでの日常は、よろず相談が絶えないという。家のこと、親族のこと、あらゆる悩みに対し、親身になって人生の悩みに応じ、あてがうべき説法をしたり、なぐさめたりする。「何でお坊さんが(人に)合掌するんだと言われるが、『あなたの中に宿っている仏に合掌している』と言っている。私はインドの仏教徒の奴隷となりたい」と言い切る。

「同体大悲といって、みなさんと私の体は一つだ。苦しみも悲しみもみな一つだ。インドの仏教徒はみな貧しい。日本の比ではない。毎日のように虐げられ、辱められてきた人たちと共に、これが私の心の軸です」

寄り添う姿勢は、自身の体験が基になっている。終戦時は「木の根も掘って食べた。牛の食べるようなものでしのいできたんだ」という貧しい生活を送り、中学時代には原因不明の高熱に倒れた。

一方で異性への関心をはじめ、内からわき出る「渦巻き、沸騰するような」エネルギーと煩悩をいつも持て余していた。かと思えば「自分は人生の敗北者だ」と思い詰め。自殺を試みたこともあったという。若かりし頃を”世紀の苦悩児”だったと語る佐々井さん。

「悩みに悩み、もだえにもだえた放浪者だから、人間の悲しみが分かるんだ。人間の苦しみを味わってなきゃいけない」。顔に刻まれたしわが、険しさを増した。

講演後、土佐町内で宿泊した佐々井さんは翌朝、突然思い立ち、近くのみつば保育園に立ち寄った。「子どもは伸び伸びしているのがいいね」。顔をほころばせ、自然と集まってきた園児の頭を右手でなでていく。老若男女から敬愛されているという佐々井さんの、インドでの姿が目に浮かんだ。

佐々井秀嶺(ささい・しゅうれい)

1935年、岡山県新見市に生まれる。60年、高尾山薬王院(東京)で得度。タイで修行を経て67年インドに渡る。68年から仏教復興運動に身を投じる。

ヒンズー教カースト制度で最下層の「不可触民」を仏教に改宗させることで差別のくびきから解放する改宗式の導師を務めるほか、ヒンズー教徒が管理していた仏教の聖地ブッダガヤの奪還運動、仏教遺跡発掘も主導してきた。88年にインド国籍を取得し、2003~06年には政府少数者委員会の仏教徒代表委員(副大臣各)を務めた。

 

 

1回目の高知新聞掲載後、高知県内の方はもちろん、県外の方からもたくさんのお問い合わせをいただき、会場が満席になるほど多くの方にご来場いただきました。

石川がインドを訪れた時から始まったご縁が、会場へ来られたみなさんとの新たな出会いへとつながったことを、とてもうれしく思っています。

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私の一冊

久野兆佳

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「プリズン・ホテル[3] 冬」 浅田次郎 集英社

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