鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「谷川俊太郎質問箱」 谷川俊太郎 東京糸井重里事務所

詩人の谷川俊太郎さんが寄せられた質問に答えていくこの本は、時々クスッと笑えたり、なるほど〜と思えたり。うん、肩ひじ張らなくてもいいよね、と思えます。

2枚目の写真の質問「大人になるということは、どういうことなんでしょう。谷川さんの「大人」を教えてください」。

その答えは「自分のうちにひそんでいる子どもを怖れずに自覚して、いつでもそこからエネルギーを汲み取れるようになれば大人になれるんじゃないかな。最低限の大人のルールは守らなきゃいけないけど、ときにそのルールから外れることができるのも、大人の証拠」と谷川さん。

なるほど!

これはいいなあ、と思った質問をもうひとつ。

質問:「車、飛行機、そのあとに続く乗りものって、まだないと思うんです。ぼくたちはこれからいったい何に乗ればいいんでしょうか。」

答え:「雲に乗るのもいいし、風に乗るのもいいし、音に乗るのもいいし、気持ちに乗るのもいいんじゃないかなあ。機械じゃない乗りもの、手でさわれない乗りものが未来の乗りものです」

 

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賀恒さんはお正月用の飾りを作るところを見せてくれた。

地面にゴザと座布団を敷き、母屋の隣の小屋から藁の束を出して来た。秋にお米を収穫した時に、きれいな藁を取っておいたのだという。その藁でお正月飾りを作ったり、しめ縄を綯ったりする。
藁の束を片手でひょいと持ち、ホースからちょろちょろと流れ出る山水で濡らす。そうすることで藁がしんなりし、手で綯いやすくなるのだ。ぽたぽたと山水の雫を伝う藁を揃え、座って静かに藁を綯い始めた。

夕方の橙色の光に照らされながら「高峯神社の鳥居のしめ縄もこうやって綯っちゅうのよ」と話しながら綯われた飾りは、それはそれは美しいものだった。高峯神社の手洗石や鳥居、本殿に上がる階段につけられていたいくつものしめ縄は、賀恒さんが作ったものだったのだ。

 

目の前に迫る山を指差しながら「この山の尾根伝いに行ったら高峯神社に着くよ」と教えてくれた。山道をくねくねと行ったり来たりしながらたどり着いたこの場所に立つと、方向感覚なんていうものはなくなってしまう。賀恒さんが指差した方向は、私が思っていた方向と真逆だった。

 

高峯神社には、拝殿へ向かう階段のところどころにコンクリート製のブロックが置いてある。段差がきつい箇所に置いてあるので石段を上りやすいようにしていることはわかった。でもいつも不思議で仕方なかった。きっと歴史ある特別なこの場所なのになぜ「コンクリート」を使うのだろう、他に方法はなかったのだろうかと残念にさえ思っていた。

ある日突然、その謎はとけた。賀恒さんと一緒に階段を上っている時だった。

「このブロックがあると、先輩たちが上りやすいろう。ホームセンターのブロックを買ってきて置いたんで」
賀恒さんはさらりと言った。地域の先輩に相談してホームセンターで1つ100円のブロックを買い、軽トラックで神社のそばまで載せて来て、賀恒さんが一つずつ運びあげたのだという。

まさか賀恒さんだったとは!
心底驚き、そして爽快だった。

これは、70年間この場所へ通い続けた賀恒さんがした仕事なのだ。

「ブロック」は、この地では日常的に使われているものだ。賀恒さんにとって、きっとこの場所は日常であり、生活の一部でもあるのだ。この場所に毎日のように通い、小さな変化に気づき、その時の自分にできることをしてきたのだ。ブロックを抱え、ひとり階段を上る賀恒さんの姿を思うと「なぜブロック?」と、そんな風に思ってしまった自分が恥ずかしかった。

「大変だったでしょうね」と言うと、賀恒さんは「いやいや、そんなことない。やらしてもろうて」と首を振るのだった。

 

そして、ぼそっと言った。
「高峯神社の縁の下の力持ちになれたらと思うちょります」

 

 

賀恒さんの背中を見ていて思う。

 

どうしてなのだろう。
誰に言われるでもなく、誰に褒められるわけでも認められるわけでもなく、自らひけらかすこともなく、自分のやるべきことを淡々と積み重ねる。自分のしたことが誰にも気づかれないこともあるかもしれない。

でもきっと、大切なことはそんなことではないのだ。
この地で生きる人たちの一見さりげない仕事の数々が、気持ちの良い風を吹かせる。小さなひとつひとつが目の前の現実を昨日よりもよりよく、より美しくしているのだと思う。その変化は見ようとしないと見えないかもしれないし、ふとした時に初めて気付くのかもしれない。世の中を動かし支えているのは、世界中のこういった市井の人たちなのだとあらためて思う。

 

 

高峯神社に初めて一緒に行った日のことだった。賀恒さんを家まで送り、挨拶をしてふと見上げた時に目に入った。賀恒さんの家の2階の窓際に小さな机があって、机の上に土佐町史が置かれていた。
ああ、あの場所で賀恒さんは土佐町史のページを開いているのだ。
あの場所に座り、自分の生まれ故郷や暮らしている土佐町の姿を思い描いてきたのだ。
賀恒さんが自分の知っていることや学んだことをいつも熱心に話してくれるのは、会ったことのない祖先たちから受け取った何かを次の世代に手渡したいという賀恒さんの願いのあらわれなのではないだろうか。

 

重ねてきた日々の尊さを思う。

今まで通りすぎてきた道のあちらこちらに、いつのまにか手のひらからこぼれ落ちてしまったこの町の輪郭があることを賀恒さんは教えてくれた。毎日通る道の風景や頰に感じる風を、昨日とはまた少し違うものに感じるようになった。

次の世代に手渡すということは、こういうことなのかもしれない。

 

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賀恒さんは土佐町の隣、いの町で生まれた。

「昔からの血縁関係で、叔母に子供がなかったから土佐町に連れて来られて。兄弟10人もおったもんじゃき、戦争が終わって食料のない時で、口減らしによ。中学校を卒業するのを待ちかねちょって、世話せいと言われて連れて来られてよ。15歳の時よ」

賀恒さんはその時からこの芥川の家で暮らし始めた。

「最初は電気もないところでよ。叔父と叔母と3人だけの生活じゃったけ、なんでこんなところに養子に来たんじゃろうと考えてみたり…。炭を焼いたり、三椏をとったり、そんな生活をしてた。1日がかりで歩いて高峯、陣ヶ森を超えて石原へ買い物に行った。石原へ行くのに高峯の参道を超えていくのが一番近道で。高峯への道は、自分が若い時の生活道よ」

「今、自分は85歳。今となって初めて考えることがあってよ、先祖は60代、70代で亡くなっちゅうけど、自分は85歳。ここまでどうして生かしてくれたろうと感謝しよります」
賀恒さんはそっと笑うのだった。

 

親戚とはいえ、自分の実親ではない人に育てられたことを賀恒さんは今まで何度も私に話した。そしていつも「叔父も叔母もとてもよくしてくれたのよ」と言い添えた。

 

「土佐町史」という深緑色をした布張りの厚い本がある。この本には土佐町の地域ごとの歴史や文化、言い伝えなどが詳しく書かれている。賀恒さんはこの町史を読み込んでいて、高峯神社のことはもちろん、神社の境内にある手洗い石のこと、高峯神社への道しるべの存在、山や峠、峰の名前…、たくさんのことを教えてくれた。

隣の家の蔵にあった昔の出生届。高峯神社の神官さんが木の札に書いていたのだそうだ。

 

出会ったばかりの頃、私は賀恒さんのことを歴史が好きな人なのだなと思っていたが、一緒に高峯神社を歩くうちにそれだけではないのでは、と感じるようになった。

これは想像だが、町史を読み、実際にその場所を訪れ、ひとつ一つの史実や事実を知っていくことは、実の親元を離れて土佐町に来たこと、この場所で生きていく現実を自分自身に納得させていくような作業だったのではないか。そんな風に思うようになった。

 

 

「あそこにお墓があるろう?よく見てみたんじゃけんどよ、15代前の人のもあった。不思議に思うんじゃけんどよ、もし誰か一人でも欠けていたら自分はいなかったんだなと思うのよ。そう思うと今ここにいるのが不思議だなあって」

 

ひとつひとつの石に刻まれた名前。
この石が、この地で生きていた人たちがいたことを教えてくれている。

会ったことのない先祖たちがいたこと、そのうちの誰か一人でもいなかったら今の自分は存在しなかったこと…。そのことを初めて理解したのは、確か小学生の頃だったと思う。自分とつながる人たちが手をつなぐように、絡むように、深く延々と、まるで螺旋のように迫ってくるような気持ちがしたものだった。人は皆、誰でも体の内にその螺旋を持っている。人はいつも必ず誰かと繋がっているのだ。

(「高峯神社の守り人 その4」に続く)

 

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賀恒さんは高峯神社の守り人。

70年間ずっと高峯神社のお世話をしている。高峯神社のことを知りたかったら賀恒さんに聞いたらいいと黒丸地区の仁井田亮一郎さんが教えてくれた。そのことがきっかけで賀恒さんを初めて訪ね、それから何度も一緒に高峯神社へ行った。
そのたびに賀恒さんは、芥川の家に毎日のように通って仕事をしているのだ、と話してくれた。

 

今、賀恒さんは土佐町の石原地区に住んでいる。

今から40年前、賀恒さんのお子さんが保育園に入る年になり、芥川から保育園へ通うには遠すぎるので石原の家に引越した。当時、石原地区には保育園はもちろん、学校や宿、色々なお店があり、人の行き交う賑やかな場所だった。賀恒さんは石原に「いつのまにか住み着いてしまった」のだという。

それから40年間、石原から車で30分くらいかかる芥川のこの家に賀恒さんは毎日のように通って、家の周りや畑の世話をしている。雨が降っても日が照っても、来れるときは大抵芥川の家に来ている。
「正月から大晦日まで休みなしですけ。アホのすることよ」
賀恒さんはそういうのだった。

 

賀恒さんは「まあまあ、そこに座りなさいよ」とぽかぽかと日の当たる縁側に案内してくれた。

静かに並ぶ先祖のお墓、きちんと剪定されたお茶の木やしいたけのホダ木が置いてある栗の木の周り…。とにかく視界に入るところ全て、賀恒さんの手が細やかに入っていることがわかる。

なんて美しいところなのだろう。
日向ぼっこをしながら、ぼんやりと目の前に広がる風景を眺める。

賀恒さんはポットに入ったお茶を湯飲みにそっと注いでくれた。白い湯気がゆらゆらと影になり、縁側を照らす光と重なった。それは賀恒さんが5月に摘んで炒ったお茶で、野山の味がするとても美味しいお茶だった。

 

同じ敷地内のすぐそばに、もう一軒家が建っていた。「ここにはもう誰も住んどらんよ。ゼンマイを採らせてもらってるき、草を刈らしてもらいゆう」と賀恒さんは話してくれた。

 

今まで誰かが住んでいた家に人がいなくなり空き家になると、草は伸び放題、家はあっという間に朽ちていく。そんな家を今まで何軒も見てきた。
でも時々、誰も住んでいない家なのに人の気配を感じる家に出あうことがある。そういった家は大抵、家の周りの草が刈られていたり、家に向かう道々に花が咲き、今も誰かがこの家に来ているということを教えてくれる。住んではいないけれどこの家を大切にしている人がいるということは、不思議なことにじんわりと伝わってくるものだ。
賀恒さんは、遠くに住むこの家の大家さんに、この山の栗や山菜を送っているのだという。

 

40年前、芥川には家が3軒あったそうだが、今はこの賀恒さんの家と少し離れたところにあるもう一軒だけになっている。賀恒さんは毎日通うことで、自分が育った家と芥川という地域を守っているのだ。

(「高峯神社の守り人 その3」へ続く)

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「シロナガスクジラより大きいものっているの?」 ロバート・E・ウェルズ 評論社

地球上の生き物の中で一番大きいのはシロナガスクジラ、なのだそうです。

その事実を元に「シロナガスクジラが100匹入るビン」を積み上げたり、「エベレストを100個」重ねたりなど、私たちが想像できる(?)「でっかい」ものたちを使って、地球や宇宙がどんなに「でっかい」のか教えてくれます。

土佐町には「お話ボランティア」さんという人たちがいて、毎週水曜日の朝、小学校の各学年の教室に行って本を読む活動を続けています。

私もそのうちの一人なのですが、この絵本を今までに何度か読んだことがあります。高学年の子どもたちは「シロナガスクジラ」や「エベレスト」はもちろん、どうやら宇宙は想像がつかないほど広いらしいということもすでに知っているのですが、「太陽」や「赤い星アンタレス」や「銀河」の大きさを自分たちが知っているものと比べて考えると「わあ〜〜〜〜…」という顔に。想像が想像を超えていく、そんな表情になっていきます。

先日、ブラックホールの姿をとらえた写真が新聞の一面に大きく掲載されていましたが、広い宇宙の中にある地球という惑星に住んでいる私たち人間は、宇宙から見たらとても小さな存在なのでしょう。想像力を働かせ、空を抜け、地球を飛び出し、宇宙から今立っている場所を俯瞰的に見つめてみると、力んでいた肩の力がふわっと抜けるような、そんな気持ちになります。

宇宙は広い。その宇宙も自分が立っている地面とつながっているんだよ、ということを思い出させてくれる一冊です。

鳥山百合子

 

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この道でいいんだといつまでも確信がもてない道を通るのは、本当に久しぶりのことだった。道の右側を見下ろすと川、左側にはすぐ山が迫り、Uターンができない一本の山道。舗装されていない道はとにかくデコボコしていて、進むたびに車の底がガリガリ!とひどい音をたてる。水の溜まった轍に何度も突っ込み、右に左にぐらんぐらんと揺れる。

本当にたどり着けるのか…。
でも、とにかく行くしかない。
今日行きますね、と約束したのだから。

 

ガリガリいう音にいつのまにか慣れたころ、ふと思い出した。
「電線をたどって来たらいいきね」
確かそう言っていた。

運転席から見上げると、うっそうと立ち並ぶ杉林にまぎれるように一本の電柱が立ち、少し離れたところにまた一本立っていた。その間には一本の電線が通っている。

これだ!
この道でいいのかもしれない。

 

それから10分くらいたっただろうか。
遠くにそれらしき屋根が見えた時「あった!」と思わず声が出た。それまで薄暗い山の間の道を通って来たせいか、太陽に照らされてオレンジ色に光っているその屋根が眩しかった。
小さな橋を渡って、ここからは歩いて家に向かおうと車をとめた場所はじめじめとぬかるんでいる。イノシシが掘り荒らした跡があちらこちらにあって、つまずきながら歩く。吐く息は白くひんやりとしていて、深呼吸したくなるような澄んだ空気がそこにあった。

賀恒さんは、毎日この道のりを通っているのか…。
ひれ伏すような気持ちになりながら、屋根が見えた方へ向かって歩いた。

細い坂道を登っていくと、急に視界が拓けた。

ぐるりととり囲むように右も左も広大な斜面が続き、どこも綺麗に草が刈られている。立っている場所から360度見渡せるこの空間に、まるで空からスポットライトが当たっているかのよう。

あれはきっとゼンマイ畑なのだと思う。斜面の真ん中に小さなハゼが立ててあって、ほぼ乾きつつある小豆が干してある。畑には芽を出し、大きくなり始めた黄緑色の白菜や小さなチンゲンサイの苗が植えられていて、寒さや雨に負けないよう根元には藁がしいてある。

確かにここで暮らしている人がいる。

正面にある母家からラジオの音がする。そのラジオの音に私の足音が重なり、今までここにあっただろう静けさが急に人の気配を帯びたものに変わったのだと思う。台所で座っていた賀恒さんがもうこちらを向いていた。

賀恒さんは、いつものように笑顔で迎えてくれた。

ここは賀恒さんの芥川の家。

高峯神社の守り人 その2」に続く」

 

筒井賀恒 (東石原)

 

*賀恒さんに教えてもらった「高峯神社への道しるべ」についての記事です。

高峯神社への道 その1

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと一緒に、高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は地図上の「6」の場所にある石碑についてのお話です。

(「高峯神社への道 その5」はこちら

道をさらに進み、6つ目の道しるべへと向かう。

午前中の早い時間のこの道は、立ち並ぶ杉の間からこぼれてくる光に満ちていて、いつも本当に美しいと思う。

 

 

道の途中、いつも車をとめて深呼吸する場所がある。昔の人も同じだったんじゃないかなと思うと何だか楽しく、この地で暮らしを重ねてきた人たちの気配を感じる。

 

左手にコンクリートの壁が見えて来たらこれが目印。6つ目の道しるべは倒れるようになりながら、なんとかここに建っている。

石碑の横にある細い道があって、これが昔の道なのだと賀恒さんは教えてくれた。

2つ目の石碑がある石原から山を越えて、道はずっとここへ来ちゅう」

 

 

「従是 三宝山 十丁」

 

「これより 三宝山へ 十丁 相川谷中」

「さっきより近うなったぜ。十丁は600間(けん)。自分らは小学生の時、尺貫法を習ってるのよ」

高峯神社まであと1キロちょっと、というところだろうか。

 

 

 

この石碑の向かいには、下からあがって来る山道がある。この道を「尾根伝いに降りていったら西石原のしもへ着く」のだそうだ。

「道路ができて、道路しか通らんけんどね。昔の道がちゃんとあったんですね」と賀恒さん。

昔の人は、よくこの道のりを歩いたなあと思う。ひとつひとつの石碑をたどりながら自分に言い聞かせるように、あともう少し、もう少し、と遠い遠い高峯神社までの道を歩いていたのだろう。

 

 

 

(「高峯神社への道 その7」へと続く)

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私の一冊

鳥山百合子

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「いもさいばん」 きむらゆういち文, たじまゆきひこ絵 講談社

約3年前に出版されたこの本は、高知県香美市の小松さんという女性の詩を元に作られました。高知新聞に掲載されたその記事を見て、高知市にある星ヶ丘アートビレッジで開かれていた「いもさいばん」の展覧会へ行って買い求めた本です。

丹精込めて育てたいもを誰かが盗んだと、おじいさんは罠を仕掛けたり見張ったり。ある日、うりぼうがいもをせっせと運んでいるのを発見。

「わしの畑のいもじゃ!」と言うじいさんに

「わしの畑?そんなこと誰が決めたの?」
「この地面も山も川も空も、人間だけのもんじゃねえ。」

「雨降って太陽浴びて育ったはずや。雨や太陽も人間が作ったって言うのけ?」「人間が畑なんか作ってひとりじめするのが間違ってる」と動物たちも負けてはいません。

でも、たぬきが叫びます。

「でも、僕は、このじいさんがすごく頑張ってたのをずっと見てた。畑を耕したり、水をやったり。だからこんなに立派なおいもができたんじゃないか」

さて、どろぼうは人間か、動物か?

うーーーん、とみんな考え込む。

それでお話は終わり。

土佐町小学校でのお話ボランティアでこの本を読んだことがあります。どの学年の子どもたちも、うーーーん、という顔になるのが面白い。

私もその答え、まだわかりません。

鳥山百合子

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「はてしない物語」 ミヒャエル・エンデ著 岩波書店

この表紙の写真を見てください。あかがね色の布張りの表紙の真ん中に描かれているものは何でしょう?

そう、ヘビです!2匹のヘビがお互いのしっぽをかみ合って、ぐるりと円を描いています。
その円の中に描かれた題名が「はてしない物語」。

本の手触りも、手にした時の感じも最高です。なんて素晴らしい装丁なのでしょう。

このあかがね色の本そのものがこのお話の中に登場するのですが、そのことに気づいた時の驚きといったらありませんでした。お話と現実がつながったと言ったらいいでしょうか。

 

このウェブサイト「とさちょうものがたり」がまだ名前を持つまえのこと。サイト名を何にしようか、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませていた時に、ふと目に飛び込んできたのがこの本でした。

人はみな、ものがたりを持っているのです。
世界中のあちこちに、その人だけのものがたりが散りばめられています。

これからも土佐町のものがたりを大切に紡いでいきたいと思っています。

鳥山百合子

 

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これは高峯神社の守り人、筒井賀恒さんと一緒に、高峯神社への道しるべを辿った記録です。
今日は「地図上5」の場所にある石碑についてのお話です。

 

(「高峯神社への道 その4」はこちら」)

4つ目の石碑の先からは、植林された山の中へと道が続く。昔は今よりももっと道が細く、馬が一頭やっと通れるくらいだったそうだ。その道を昔の人は歩いて行き来していた。

賀恒さんは以前、安吉に住んでいた。
「安吉に住んじょったけんど、家がたった3軒しかなかった。買い物や散髪にいく時、歩いて一日がかりで石原へ行った。この道があったから、なんとか奥で生活しよったよ」

 

現在のこの道路が出来上がったのが、昭和24年のこと。

山の中を縫うように走る細い道。この道を今までどれだけの人が通ったのだろう。
その道を進んで行くと現れる、5つ目の道しるべ。

「従是  三宝山 二十丁」

道路の左側に道しるべはある。落ち葉と土に埋もれるように、大きな岩に寄りかかるようにして建っていた。

「これより 三宝山 二十丁」

丁は約109m、ここから高峯神社まであと2㎞ほどだ。

 

高峯神社の宮司さんである宮元千郷さん(写真左)もこの旅に同行してくださった。

 

峯石原林道という名前でこの道路は開発され、昔、このあたりは「猿・猪のお住まいどころ」と言われていたという。

それだけ山深い場所に、今も昔も人は暮らし続ける。

 

「安吉の集落までの道路ができてくるのが楽しみでよ。戦争中や戦後、食料のない時は配給制度で、米も一人あたりなんぼと決まった量しか買えんかった。馬方に頼んでよ、毎日ぎっちり荷物を積んで供給してくれた。今のマーケットみたいなもんよ」

この道の先にある黒丸、瀬戸、安吉、峯石原で暮らす当時40戸分の人たちの荷物を、馬一頭の背中で運んでいたそうだ。山奥で暮らす人たちは近くで田んぼを作れないため、稗(ひえ)や粟などの雑穀、キビなどを育てて生活していたという。

「高峯に行く道は、林道ができるまでは牛や馬で運んだり、天稟で背負うたりして…。今、楽な生活ができるような時代になったものよ。今までの生活を振り返ってよ、自分が自動車に乗って走れるなんて思いつかなかった」

 

曲がりくねった道の向こうから、馬がゆっくりと歩いてくる音が聞こえてくるようだ。今まで知らなかったことを知ると目の前の風景が違って見える。

(「高峯神社への道 その6」に続く)

 

 

(「高峯神社への道 その6」に続く)

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