とさちょうものがたり

土佐町ストーリーズ

戦中戦後の時代を生きて今思うこと 後編

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土佐町の谷種子さんが、自ら体験した戦中戦後の出来事を寄稿してくれました。(前編はこちら

 

1945年の終戦の年だったか、 その前年だったか定かではありませんが、 私の家から見て、西の空をトンボが群れ飛んでいるくらい沢山の飛行機が飛んでいるのを見たことがあります。 後でB29だと聞かされました。

高知市は、 1945年 (昭和20年) 7月4日未明に、B29が焼夷弾の雨を降らし焼け野原となり、沢山の犠牲者をだしました。

嶺北地方は、空襲されることはなかったけれど、 空襲に備えて防空壕を掘る家もあり、防火訓練をしたり、本土決戦にそなえ、 竹槍を作り敵と戦うのだとその訓練をしたり、当時の国策(精神論) に翻弄されました。

また、出征している兵士の 「武運長久」 を祈念するため、 吾川郡上八川村 (現・いの町) の若宮八幡宮に日参詣でのため、 二人組の交代で参拝に行っていました。 順番が来れば母は隣の方と二人、 朝早く提灯を灯し出かけて行きました。 現在は、国道439号を車で30分位で行くことが出来ますが、 あの時代には 「郷ノ峰トンネル」 はなく、車もなく、自分の足で歩いての山越えでしたから、 その苦労は大変だったと思います。

この様な時代に少女期をすごしましたので、小学生のころから、家族の一員、 戦力として、田植え、 田の草取り等の手伝いをしました。 当時の学校は、春と秋には農繁期の休みが一週間位あったと思います。 皆、 家の手伝い をしましたし、労働力のない家には「勤労奉仕」といって手伝いに行きました。 全て食糧増産のため、皆が生きる為でした。

 

 

田井山の八合目位に、 家の炭焼き窯があり、父は家から炭窯の煙の色を見て、 夜中でも火を止めるため、山に登っていきました。 子供心に「すごいなアーーー」と誇らしく思ったことでした。 炭が出来ると、茅で編んだ炭俵に炭を入れ、背負って家まで持ち帰る手伝いをしました。

また、 田井山の五合目あたりにあった採草地を開墾し、芋畑にしていましたので、 植付け・草取り・収穫と随分この畑には通いました。 収穫のときは、芋を「かます」 に入れ、これも背負って家まで持ち帰りました。 今と違って、なにをするにも動力はなく、全て人力での対応でした。

家は百姓でも、米も麦も保有米を除いて、残りは全て供出しなければなりませんでしたので、余分なお米はなかったけれど、 必要なものとの物々交換に使ったり、不幸ごとで、 どうしても必要な方に融通することもありましたので、麦ご飯だけでなく、サツマイモを入れたご飯や菜飯も食べました。

しかし、ひもじい思いをしたことはなかったです。 サツマイモで空腹を満たすことが出来ましたから。 また、サツマイモは大切なおやつでもありました。

戦後76年、今思うことは、戦中戦後の食糧難に命をつなぎ止めてくれた芋畑や田畑が耕作放棄地となり、荒れていくさまに、 未来の人達の為に 「これでいいのか、これでいいのか」と悩んでしまいます。

 

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土佐町ストーリーズ

戦中戦後の時代を生きて今思うこと  前編

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土佐町の谷種子さんが、自ら体験した戦中戦後の出来事を寄稿してくれました。

 

 

1933年(昭和8年) 生れの私は、小学校2年生の1941年 (昭和16年) 12月8日太平洋戦争が始まり、6年生の1945年 (昭和20年)8月15日、終戦の日を迎えました。

その日は、学校は夏休みでしたが、私は同級生数人と「当直」の当番でしたので学校に行っており、日本が戦争に負け、無条件降伏をしたことを先生から聞かされました。

戦中戦後で特に記憶に残っていることは、食糧難、食べる物がなく、ほとんどの人が飢えに苦しんだことです。

私の家は農家で、田圃では、 米と麦を作っていました。 収穫した米と麦は、保有米(一家の食べる分)を残して、残りは全部供出しなければなりませんでした。

これまで養蚕のための桑畑であった処も、食糧増産のため、桑の木を除去し、サツマイモを作りました。山の採草地も開墾し、 芋畑となりました。 サツマイモも供出の対象だったと思います。

これは私の家だけのことではなく、どこの家も米や麦は保有米を残して供出し、 草地や山林の開墾出来るところは開墾し、サツマイモを植えました。

 

また、戦争末期にはどの家庭も働き盛りの若者は、召集や徴用で狩り出され、 留守宅は高齢者・女性・子供達だけとなり、不足する労働力を補う為、 旧田井村に予科練が駐屯し、 私達が通称 「ヅンヅン山」 といっていたところを開墾して、芋畑をつくりました。面積については記憶していませんが、 広い芋畑が出来、命をつなぐ一助になったと思います。

田舎の農村地帯でさえ、このように食糧増産に努めざるを得なかったのですから、 都会は大変だったと思います。

1944年(昭和19年)頃から都会から疎開してくる人達が増え、 転校して来た同級生も10人位いたように記憶しています。

皆、食べることに精一杯でした。 特に疎開してきた人たちにとっては、 わずかばかりの配給ではお腹を充たすことは出来ず、畑を借りてサツマイモや、 南瓜を作り空腹をしのいでいたと思います。

 

後編に続く)

 

*谷種子さんのことを書いた記事はこちらです。

木を植える人 その1

 

 

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土佐町ストーリーズ

順太地蔵 (南川)後編

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(中編はこちら

ただちに名主に報告され、順太の国元へも死体発見は知らされた。

役人は その翌日検死のために部落に来たが、よそ者の死に対する村役人の処置は極めて冷酷なものであった。

何処かで仕事中事故死していた順太の死体がたまたまの出水に流れて来たと断定して帰っていった。

村人達も順太の死因についてはガンとして口を割ろうとしなかった。やがて阿波からは母親お清が、順太の姉と共に死体引取りにやって来た。

そして、現場にコモをかむされている順太の死体に涙と共に対面した。この秋には可愛いい一人息子の順太にはお花と言う美しい嫁が 来る、その日を一日千秋の思いで指折り数えて待っていたのは順太にもまして此の母親ではなかったろうか。

焼野のきぎす夜の鶴はえば立て立てばあゆめの親心、世に子を思わぬ親があろうか。

順太の死因が他殺である事は一目遺骸を見た時歴然としていたし、血を分けた可愛いい吾が子の死因が、此の母親にわからぬ筈はなかった。

が、しかし村役人の検死もすんだ今殊に異郷の地で、女ばかりの彼女達には今更 その死因を追求することも出来なかったのであろう。唯、彼女の心中は悲しみと憤りで一杯だったのであろう。

涙も枯れ果てたお清母娘は順太の遺骸を箱におさめた。そして彼女はき然として言った。「順太 くやしいであ ろうが お前の遺体は 此の母が連れて帰ってやるが、順太お前も男なら魂魄、永久に此の地に留まりかたきをっ 」と言いおいて、その翌日阿波屋の人夫に付添われたお清母娘は、順太の遺骸と共に阿波に帰って行った。

一方、お花は順太が若者に殺されたその夜から床についてしまった。玄安夫婦の優しいいたわりの言葉にも口を割ろうとはせず、寝床で泣いていたが、お清母娘が阿波に帰ったその翌日、丁度、両親の留守中にお花の結婚準備に母親の作ってくれてあった白無垢赤無垢の嫁入衣装を身にまとい自宅より約四百メートルも上方の大きい石の上に上り踊り始めた。

彼女は順太恋しさに遂に発狂したのである。

折柄、初秋の夕日をあびて岩頭に順太の名をよびながら踊り狂うお花の姿は、遠く対岸の農家からも見られたが、村人達は二目と見ることができなかっ たという。

そして三日目精魂つき果てたお花は遂に岩頭に倒れ息絶えていたのである。以来この石を里人達は不登の石と呼び、百三十年の星霜を経た今なお、部落の人達はこの石に登る事はタブーとされている。

現在も植林の中にお花の悲しみを秘めた石はそのままの姿で、お花の悲恋をいたむかの様に残っている。

さて、その後、此の部落には不幸な事が続いた。ある時は木材伐採の人夫が仕事中に大けがをして死んだ。又ある時は昨日まで元気だった若者が発狂して廃人同様に成った。

ある家では若者が入浴中に頓死したり、川に流れた子供の水死体が丁度順太の遺骸が発見された川原の砂で発見された。

こうした不幸に見舞われた家の人達 は、お寺さんや神官さんをやとって御祈騰をした。その都度、順太のたたりだと神仏からのお告げがあった。

里人達はこれを順太狸と呼んで恐れおののいていた。そして、こうした不幸に逢った家では順太の霊を慰め冥福を祈って石の地蔵さんを作って立てたと言うが、依然としてくる年もくる年もこうした不幸な出来事は絶えなかった。

そこで名主は部落の主だった者を集め部落で順太の供養をすることに成った。

年号も変わって安政五年七月二十五日部落民は戸毎にたいまつを作り瀬戸川と吉野川の合流点に集り、あかあかと燃えるたいまつを川に流し念仏を合唱して順太の霊を慰めた。

その時部落で建てたのが今に刈谷橋に残る石の地蔵さん。以来星移り時は流れ て百二十有余年、今では順太のたたりも無く平和な部落のいとなみは続けられている。

そして、この悲しい恋の物語りも部落の人にさえ忘れ去られようとしている。

以上が順太お花にまつわる悲しくも哀れな物語りである。この物語りは昭和二十年の秋、足掛け三年目に召集解除されて帰宅した私が当時九十歳近くで病の床にあった部落の古老山中福太郎翁から聞いた話を要約したものである。

この福太郎翁は昭和二十五年に九十四歳で亡くなっているが、この翁の記憶に残っているのは安政五年に部落で供養した時のたいまつ流しに行った事、帰りにはこの下の清七ぢいに背負ってもらって帰って来た事」 であったという。なお順太以外の名は必ずしも実名でないとのことである。

 

町史 竹政一二三

 

 

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メディアとお手紙

シカのシンカ 高知新聞に掲載されました!

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2021年7月21日、高知新聞に「鹿の角ガチャ」についての記事が掲載されました。高知新聞嶺北支局長の竹内将史さんが書いてくださいました。

「鹿の角ガチャ」については、2021年6月11日の高知新聞でも取り上げていただき、多くの反響をいただきました。この記事が掲載されてから、編集部の元へは続々と鹿の角が届き始めました。土佐町の猟師さんが「よかったら使いや〜」と角を持ってきてくれたり、大豊町の障がい者支援施設「ファースト」にも角がどっさり入ったダンボールがいくつも届きました。大豊町の民生委員さんが知り合いの何人もの猟師さんに声をかけてくれたそうです。

また、ガチャガチャを置いてくださっている土佐町の繁じさんには「ガチャガチャを回しに来ました」という人もたくさん来てくださっています。いつも行列ができる人気のうどん処 繁じさん。お忙しいなか対応してくださっていることに本当に感謝しています。

同じく、ガチャガチャを置いてくださっている高知蔦屋書店に行った人から「子どもたちがガチャガチャに群がっていました!」という報告もいただきました。

私たち編集部以外にも、鹿の角ガチャの取り組みに心を寄せてくれる人たちがこんなにもいるのかと感じた出来事の数々でした。多くの人たちが表してくださった行動や言葉から、私たち編集部はどんなに励まされたでしょう。一人ひとりの人たちに心から、ありがとうございます、とお伝えしたいです。

 

とさちょうものがたり編集部はこれからも今できることを考え、多くの人たちがハッピーになれるような在り方をつくっていけるよう精進したいと思います。

 

山間の営みには、いくつもの学びがある。取材してイメージが一変したのがシカ。 厄介な鳥獣は、大きな恵みでもあると知った。

まず肉。正直言えば小さい頃に食べて以来、臭くて硬いという偏見があった。だが処理や調理次第では柔らかく、とびきりうまい肉だ。

牛肉と比べ、脂質は6分の1で鉄分は2倍。ビタミン類も多い。 高タンパク低カロリーの健康食材は、市場拡大の可能性を秘めている。 香美市のジビエ料理人の下には、全国からファンや同業者が訪れていた。

県内にはシカの革製品を手掛ける人もいる。それは知っていたが、恵みはまだあった。

シカの角。古くから金運や武運向上、水難よけのお守りとして重宝されてきたという。土佐町の「とさちょうものがたり」編集部は、お守りのガチャガチャ(カプセル玩具販売機)を町内と高知市に設置した。

記事で紹介したこともあり、売れ行きは好調だとか。お守りは町内の障害者就労支援事業所でも加工しており「利用者のためにも役立てて」と編集部には町内外の住民から家に飾っていたシカの剥製や角が続々届いている。加工に使う工具も住民が持ち寄ってくれたという。

編集部は「障害者らの仕事ができて、 山の文化に触れることのない子どもたちに面白がってもらえれば」と、もうけは二の次。取り組みをまねたいという町外関係者にも、どうぞどうぞと寛大に接する。 温かな輪の広がりに心が和む。

シカはすごい。その真価を生かした活用法の進化が知れ渡れば、山の心地よさにも多くの目が向くと思っている。

 

集まる鹿の角(ありがとうございます)

 

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土佐町ストーリーズ

順太地蔵 (南川)中編

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(前編はこちら

やがて若者達の嫉妬の凶器は順太の脳天に打ちおろされた。

勿論、彼等若者達にも順太を殺す気は無かったが、打ち所が悪かったか、順太はウォーッと言う悲鳴と共に死んでいった。加害者の若者達も驚いた。そして困った。が、それは後の祭り、彼等は 順太の死体を河に運び砂を掘って順太の死体を埋めたのであった。

その翌朝順太の飯場では順太が行方不明に成った事に同僚の人夫達は大さわぎと成った。そして順太の行方不明は彼の故郷の母の許へも知らされた。

一方人夫達は八方順太の行方を探したがようとしてその行方は分からなかった。

やがて月も変わり八月二日、晴天続きの天候もついくずれ、どす黒い雲が南からちぎれちぎれに飛んで行った。台風の前兆である。そして翌日三日の夕刻から四日にかけて暴風雨となった。河川は見るみる内に増水した。

阿波屋の人夫達は順太の不明の中で不安ながらも木材を流送したのであったが、さしもの台風も翌五日には又快晴の天候に回復し暑さも多少しのぎ易く成っていたが、山々にはみんみんぜみがにぎやかに鳴いてい た。

 

この頃、里の百姓与三郎は朝起きて対岸の川原の砂に異様な光景を見た。

それは真黒いカラスの群が一カ所に ガーガーと鳴いているのであった。がしかし、その日は敢えて気にもせず山畑へ仕事に行ったが、その翌朝も又その翌朝も例のからすの群は一カ所に集まっていた。

とうとう、与三郎はそのからすの群の集まっている川原に行ってみたのである。

そこで与三郎が目にしたものは、何と半ば腐乱した順太の死体、それをからすがつついて 二目と見られない凄惨な姿であった。

 

後編に続く

 

 

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とさちょうものがたりZINE 08号が発刊です!

 

本日7月20日(火)、とさちょうものがたりZINEの08号を発刊しました。

今回は「山峡のおぼろ(著:窪内隆起)」号。2019年7月に発行した04号の続編にあたります。

もう何度もご紹介してきましたが、著者の窪内隆起さんは元サンケイ新聞記者。作家・司馬遼太郎氏がサンケイ新聞紙上で「竜馬がゆく」「坂の上の雲」を連載していた時代に、氏の担当編集者として活躍されました。

その窪内さん、12歳までを土佐町・西石原地区で過ごしています。とさちょうものがたりでの連載「山峡のおぼろ」は、窪内さんが西石原で過ごした幼き日々のことを綴ったエッセイ集です。

 

20編のエッセイ+1

「山の音や声」「研ぐ」「茶碗を狙って」「機関銃」「ヤリカタギ」‥。今号に収録された20編のタイトルの一部です。

西石原の豊かな自然を舞台に躍動する少年時代の窪内隆起さんの声が淡々と編まれたようなエッセイ集。

「昔はこんなこともあった」と過去を懐かしむためだけではなく、「私たちはどこから来たのか」を知り、「私たちはどこへ行くのか」という解答にたどり着くための小さな一歩。そんな思いで作った一冊です。

+1は『終りに当たって「婉なる哉故山‥」』と題された、この連載全体に対する窪内さんのあとがきです。

サンケイ新聞退職時にあった司馬遼太郎氏との心温まるやり取りが描かれています。

 

 

 

発行は本日7月20日

土佐町のみなさまには近日中にお手元に届く予定です。

町外の方々は、以下の店舗・施設にこれから随時配布をしていきますので、最寄りの施設で入手していただければ幸いです。

 

ZINE

 

この本を手に取るすべてのみなさまに楽しんでいただけますように。

 

 

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土佐町ストーリーズ

順太地蔵 (南川)前編

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当時、この部落には至る処に杉檜の大木があった。

全ての物資の運搬に馬さえいなかった当時のこと、この無尽蔵の木材資源も土地の者にとっては、家屋の建築や修理に使う程度でしかなかった。

阿波の国にはこの木材に目をつけた大材木商人が数多くいた。彼等は吉野川の流域の木材を買い集め、大阪の堺港や和歌山に出荷して莫大な利益をあげていた。

阿波屋重兵衛も当時の大木材商人であった。

何千人もの人夫を土佐に送り、秋から春先迄、買入れた木材を伐採造材して川岸に集積する。

そしてやがて夏が来て大洪水が起きた時、集積されている木材を濁流渦巻く河に流す。

一方徳島の河口にはアバが張られて上流から流れて来る木材を集めて、木材に打ち込まれた刻印によってそれそれの木材商に引渡される。

勿論、何十パーセントか の木材は川岸に掛かったが、それでも大きな儲けとなっ ていたことであろう。

 

さて、 この阿波屋の人夫二十名程が南川にも来ていた。彼等は飯場と言う大きい小屋に寝起きして、毎日木材の伐採をしていた。

その人夫頭に順太と呼ぶ若者がいた。

二十五歳の青年であったが、さすが阿波の豪商重兵衛が見込んだだけに、読み書きソロバンは達者であり、 その上立派な体格の美男子であった。

徳島の店では番頭であり、出夫の時は人夫頭であった。当時この部落の古田と言う所に玄安と言う医者がいた。そしてお花という一人娘があった。

現在もそうであるように当時の医者は部落一番のインテリであり、文化人であった。

お花も士族の娘と共に土地の者からは姫様と呼ばれ尊敬され、美人であった。このお花と順太が恋に落ちてもそれは決して偶然の事ではなかった。

 

お花の父玄安夫婦も順太の人柄を見込み結婚を快く許した。

又、順太には父親はなかったが、母親お清も可愛い順太の申し出に異議があろう筈はなかった。

そして二人は家族達の祝福の中に嘉永六年(編集部注:1853年)の秋には晴れて目出度く結婚する事に決まっていた。

順太とお花の二人には嬉しい楽しい毎日が続いた。嘉永六年と言う年は春先からよい天気が続いた。

うっとしい長雨も六月末には早くもからりと晴れ、七月に入って暑い晴天がまた続いた。そして七月十五日の盆を迎えた。

順調な農作物の出来映えに喜んだ村人達は老若男女相集い盛大に盆踊大会が催されたのであった。

順太もお花も多くの村人達と共に楽しい踊りに更けゆくのも忘れていたが、やがて踊り疲れた村人達も三々五々家路につく頃、順太もお花と共に肩をよせ合い楽しく語り合いながら家路を辿る二人の後の木 かげに、嫉妬に狂う若者達がまなこが有ろうとは知るよしもない二人であった。

中編に続くー「土佐町史」より

 

 

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2021年1月から2月にかけて高知県内9市町村の郷土料理を撮影し、製作した動画をご紹介しています。

今回最終回、第10回目は宿毛市で作られている郷土料理「きびなごのほおかぶり」です!

 

タイトルは、土佐町どんぐりのメンバーさん作

動画タイトルの手描き文字は、おなじみ、土佐町の障がい者施設どんぐりのメンバーさん作。「きびなごのほおかぶり」のイメージとぴったりだと思いませんか?

 

きびなごのほおかぶりって?

銀色に光る、ころんとしたかわいらしいお寿司。宿毛市の「土佐ひめいち企業組合」の河原多絵さんが作っている「きびなごのほおかぶり」です。横から見ると、ちょうど人がほおかむりをしているように見えることから、この名前がつけられています。

お寿司と聞いたらお米のお寿司を思い浮かべますが、これはおからを使ったお寿司です。一口でパクッと食べられるほどの大きさで、おからはほんのりと甘い味付け。酢と塩でしめられたきびなごとよく合い、いくつでも食べられます。

 

きびなごのほおかぶりの誕生

「きびなごのほおかぶり」を作り始める前、河原さんは地域のグループで魚のすり身などの加工品を作っていたそうです。しかし、他のグループでも似たものを作っていたため、次第に自分だけのオリジナルなものを作りたいと思うように。そこで注目したのが、漁師であるご主人が捕る「きびなご」でした。

きびなごは、宿毛湾で豊富に捕れる小魚。ご主人が捕った新鮮なきびなごを使って、この地ならではの新しいものを作りたい。そして誰にでも食べてもらえるよう安価で、体に良いものを作りたい。河原さんは知恵を絞りました。

昔から宿毛にはおからを使ったお寿司があったこと、そしてうるめいわしを使った四万十市のおから寿司「ろくやた」からもヒントを得て、「きびなごでおから寿司を作ろう!」と閃いた河原さん。

ボソボソしがちなおからを、どうしたらしっとりと美味しく食べられるか?
広い範囲で販売するために、保存方法はどのような形にしたら良いだろう?

河原さんの幾度にもわたる試行錯誤が始まりました。

手を変え、品を変え、食感や味を確かめる日々。そして、やっと誕生したのが今の「きびなごのほおかぶり」です。

 

空飛ぶ寿司

この「きびなごのほおかぶり」は、JALのファーストクラスの機内食に採用され、また全国各地のホテルなどでも使われるようになりました。

自分が作るものは、胸を張って「これ、美味しいでしょう!」と言えるものでありたい。河原さんは繰り返しそう話していました。

「正直でありたい」

力強い河原さんの言葉が、今も心に残っています。

そして最近、さらに嬉しいことが。河原さんの跡を継ぐため息子さんが帰ってきたのです。娘さんも一緒にやりたいと話しているとのこと。「きびなごのほおかぶり」がビジネスとして成立しているからこそ、跡を継ごうとする人も出てくる。

郷土料理を守り、引き継いでいく一つのかたちを見せてもらった気がしました。

 

美しい宿毛湾

河原さんの仕事場は、目の前が海という場所。エメラルドグリーンの海のなか、魚が気持ちよさそうに泳いでいるのが見えました。エイもいるそうです。豊かな宿毛湾のきびなごはピカピカと銀色に光り、透き通るほどの美しさ。

当初、この動画の撮影は2月末を予定していましたが、思うようにきびなごが捕れない日々が続きました。きびなごの旬は4〜6月、無理もありません。3月上旬、「いいきびなごが捕れたよ〜!」と電話をもらったときは心の底からほっとしました。相手は自然。思うようにいかないことだってあります。

 

河原多絵さんという人

「きびなごのほおかぶり」の撮影のため、打ち合わせの日程を決めたいと、初めて電話をかけた時のこと。

河原さんは「ごはん用意しておくから、お腹ぺこぺこにしてきてね〜!」と言ってくれました。その言葉がどんなに嬉しかったことか!当日、河原さんは、きびなごのほおかぶりはもちろん、「ろくやた」と呼ばれる棒寿司、魚の煮付け、刺身など、海のご馳走を用意して待っていてくれました。

お話するうちに、私(鳥山)は、いつの間にか胸の内をさらけ出していました。河原さんはそれくらい、人間としての魅力に溢れた人でした。

 

土佐ひめいち・河原多絵さんが作る「きびなごのほおかぶり」は通信販売もしています。

宿毛ならではの郷土料理を味わい方はぜひ!

土佐ひめいち

〒788-0274 高知県宿毛市小筑紫町栄喜566-66     090-5914-9174(河原多絵さん)

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「集まれどうぶつの森」みたいなタイトルになってしまいましたが、今回は鹿の角の話です。

以前からお伝えしています「鹿の角ガチャ」、現在は土佐町のうどん処繁じさんと高知市の高知蔦屋書店さんに設置させていただいています。

 

「鹿の角ガチャ」はじめました!

 

おかげさまで売れ行きも好調な今日この頃ですが、こうなってくると問題がひとつ発生。

材料(鹿の角)が足りなくなる?

そう、この「鹿の角御守り」、材料が鹿の角。ホームセンターなどで買えるものではありません。

鹿の角が安定して手に入るという状況が継続のための大きなポイントなのです。鹿の角がなくなってしまったら商品が作れません。

そういった問題の解決策をぼんやり考えていた時期に、高知新聞嶺北支局の竹内記者がこの取り組みを記事にしてくれました。

鹿の角ガチャ!高知新聞に掲載されました!

 

町の方々から連絡が‥

高知新聞の記事が出て数日、編集部は何本かの電話やメールを町の住民の方々からいただきました。

内容は「新聞読んだけど、鹿の角が必要だったらあるよ〜」とか「知り合いの猟師さんがたくさん持ってるはずだから頼んでおこうか?」といったもの。

この展開は編集部としては予期していたものではなく、町の方々の暖かな気持ちがじんわり伝わってくるような出来事となりました。

 

大豊町の方々も‥

そして同時に、一緒にお仕事をしている大豊町のファーストでも、以下のようなチラシを町内で配ったり貼りだしたりしてみたところ‥

「驚くほど大量の鹿の角がファーストに届く(笑)」という、これもまた予想外の展開となりました。

この取り組みに対して、柔らかく背中を押していただいているような感覚を覚えるのと同時に、「どんぐり」や「ファースト」という障がい者施設のメンバーさんを応援する、地域の方々の気持ちも受け取ることができました。

こうしてたくさんの方々に応援・ご協力いただきながら「鹿の角ガチャ」という取り組みは可能になっています。

 

多くの方々からいただいた鹿の角(ほんの一部)

 

 

そもそも町の方々の力を借りっぱなし

この取り組みのスタート以前も、町の職人さんである川田康富さんに力をお借りしています。鹿の角の加工の方法を教えてくれて、一緒に解決法を考えてくれて、工具まで貸してもらって(今もその工具で作っています)、それでこの「鹿の角御守り」を作れるようになりました。

言ってみれば、多くの住民の方々の力でできあがったこの取り組み。今回のこの記事は、これまでちゃんと説明ができていなかった裏側のそんなことをお伝えしたいということと、実際にそうして力をお借りした方々に感謝の気持ちを伝えたいことが目的です。

みなさまが力を貸していただいたおかげでこうした取り組みができています。ありがとうございます!

 

 

ありがとうございます(敬称略)

川田康富 小松エイ子 高橋通世 澤田清敏 上田義和 仁井田亮一郎 こんどうストアー 小松恵子 秋山豊市 森博利 岡崎博臣 田岡一志 山内喜栄 川村勝清

 

 

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2021年1月から2月にかけて高知県内9市町村の郷土料理を撮影し、製作した動画をご紹介しています。

第9回目は、香美市で作られている郷土料理「蒸し鯛」です!

 

「蒸し鯛」は、鯛を丸ごと一匹を使った大迫力の郷土料理。鯛のお腹に、葉ニンニクや卵、砂糖などで味付けしたおからを詰めて蒸しあげます。昔から、冠婚葬祭などお祝い事の席で作られてきたそうです。鯛一匹盛られた大皿がドーン!と出てきた時の歓声が聞こえてくるようです。

 

手書きの料理名

郷土料理の動画の冒頭に出てくる料理名は、高知県嶺北地域の障がい者支援施設のメンバーさんに描いていただきました。「蒸し鯛」の文字は、土佐町にある「どんぐり」のメンバーさん作。クレヨンやマジックなどを囲んで、みんなで賑やかに描きました。「蒸し鯛」は、マジックで描かれています。

 

ウロコは大根で取る!

「蒸し鯛」づくりは、鯛のウロコを取るところから。ウロコを取るための道具を使うのかと思いきや、香美市のお母さんが手にしたのはなんと大根!輪切りにした大根を鯛の表面に滑らすと、あら不思議!面白いようにウロコが取れていきます。「大根だとウロコが飛び散らないし、一気に取れる」とお母さん。ウロコ取りでウロコを取ると辺りに飛び散り、数日後、カラカラに乾いたウロコが思いも寄らないところにくっついているのを見つける、ということがありますよね?大根だとその心配はありません!

なるほど〜!

目からウロコのお母さんの知恵でした。

 

おからの名前は「おたまちゃん」

鯛のお腹に詰めるのは味付けしたおからです。刻んだ葉にんにくや木綿豆腐、すりごまなどを混ぜ合わせ、鯛のお腹に詰めていきます。

「蒸し鯛」を作ってくれた香美市生活改善グループの代表、西内さんが「おからはお腹に詰めると、“おたまちゃん”になるんです」と話してくれました。おからに他の材料が加わり、鯛のお腹に収まった時、呼び名が変わる。それが「おたまちゃん」。

まるで、手のひらに大切な宝ものをのせているような手振りで「おたまちゃん」と話す西内さんの姿から、この蒸し鯛の存在を大切に思っていることが伝わってきました。

 

 

お母さんの知恵 その1

鯛を蒸す工程には、お母さんの知恵が詰まっています。

まず一つ目。

鯛を蒸し器に入れるとき、蒸し器に藁を渡します。その上に「はらん」という葉をひいて鯛を載せ、鯛の上で藁を結びます。蒸し器から鯛を出すときに、持ち上げやすいようにするためです。

香美市はお米どころ。お米が身近な土地ならではの知恵なのでしょう。

 

お母さんの知恵 その2

その1で出てきた葉、「はらん」。

「はらん」は、笹の葉を大きくしたような葉のことで、家の庭先などでよく育てられています。根元から切って、皿に載せ、飾りつけに使ったりします。高知では「はらん」は、料理をよくする人の家の庭に必ずあると言われているほど、馴染みがある葉です。

藁の上に「はらん」をひくのは、鯛が蒸し器にくっつかないようにするためです。

 

お母さんの知恵 その3

お母さんの知恵、三つ目。

鯛の蒸し上がりがわかるよう、さつまいもも一緒に蒸します。

「おたまちゃん」をたっぷり詰められて太った鯛は、一体どのくらいの時間、蒸したらいいのでしょう?

「蒸し上がったかな?」と何度も串を突き刺すと、鯛が崩れてしまいます。

そこで登場するのがさつまいも!

さつまいもに串をさし、柔らかく蒸し上がっていたら、鯛も蒸し上がっているという訳です。

 

撮影中、「へえ〜!」と何度つぶやいたことでしょう。郷土料理は、お母さんたちが長年積み重ねてきた、知恵の結晶なのだなと感じます。

 

 

お客さまには一番美味しいところを

蒸し上がった鯛を取り分けるとき、まずはお客さまに「一番美味しいところ」を取り分けるのだそうです。

それは胸びれのうしろ。それから、みんなでわいわいと少しずつ取り分けていく。昔、山に面した香美市は魚が手に入りにくかったので、魚を使った郷土料理「蒸し鯛」は、きっとみんなが楽しみにしているごちそうだったことでしょう。

 

若き後継者

今回の撮影で訪れた高知県各地では、郷土料理の後継者がなかなかいないという声もよく聞きました。この「蒸し鯛」を作ってくれた「香美市生活改善グループ」では30〜 40代の方たちも活躍していました。今回の撮影でも、先輩のお母さんたちが料理をしているところを見守りながら必要なときにサポートしたりと、細やかな気配りをしてくださっていました。作る現場を共にすることで後継者が育っていくのだなあと実感したことでした。

 

編集部も「蒸し鯛」をいただきました。

葉ニンニクが効いていながら優しい味でもあり、今でも「あ〜、もう一度食べたい!!」と記憶の味をかみしめています。

思い出す「蒸し鯛」の向こうに、お世話になった香美市のお母さんたちの姿が見えます。

迫力の「蒸し鯛」、その中には培われてきた知恵と美しさが詰まっています。

ぜひご覧ください!

 

 

 

 

 

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