今日は「地図上5」の場所にある石碑についてのお話です。
(「高峯神社への道 その4」はこちら」)
4つ目の石碑の先からは、植林された山の中へと道が続く。昔は今よりももっと道が細く、馬が一頭やっと通れるくらいだったそうだ。その道を昔の人は歩いて行き来していた。
賀恒さんは以前、安吉に住んでいた。
「安吉に住んじょったけんど、家がたった3軒しかなかった。買い物や散髪にいく時、歩いて一日がかりで石原へ行った。この道があったから、なんとか奥で生活しよったよ」
現在のこの道路が出来上がったのが、昭和24年のこと。
山の中を縫うように走る細い道。この道を今までどれだけの人が通ったのだろう。
その道を進んで行くと現れる、5つ目の道しるべ。
道路の左側に道しるべはある。落ち葉と土に埋もれるように、大きな岩に寄りかかるようにして建っていた。
「これより 三宝山 二十丁」
一丁は約109m、ここから高峯神社まであと2㎞ほどだ。
高峯神社の宮司さんである宮元千郷さん(写真左)もこの旅に同行してくださった。
峯石原林道という名前でこの道路は開発され、昔、このあたりは「猿・猪のお住まいどころ」と言われていたという。
それだけ山深い場所に、今も昔も人は暮らし続ける。
「安吉の集落までの道路ができてくるのが楽しみでよ。戦争中や戦後、食料のない時は配給制度で、米も一人あたりなんぼと決まった量しか買えんかった。馬方に頼んでよ、毎日ぎっちり荷物を積んで供給してくれた。今のマーケットみたいなもんよ」
この道の先にある黒丸、瀬戸、安吉、峯石原で暮らす当時40戸分の人たちの荷物を、馬一頭の背中で運んでいたそうだ。山奥で暮らす人たちは近くで田んぼを作れないため、稗(ひえ)や粟などの雑穀、キビなどを育てて生活していたという。
「高峯に行く道は、林道ができるまでは牛や馬で運んだり、天稟で背負うたりして…。今、楽な生活ができるような時代になったものよ。今までの生活を振り返ってよ、自分が自動車に乗って走れるなんて思いつかなかった」
曲がりくねった道の向こうから、馬がゆっくりと歩いてくる音が聞こえてくるようだ。今まで知らなかったことを知ると目の前の風景が違って見える。
(「高峯神社への道 その6」に続く)
(「高峯神社への道 その6」に続く)