8月10日早朝、いつもの田んぼチェックに行く。
田水は適量あるか、水漏れはないか、稲の生長は順調か、病気は出ていないか、蜘蛛や蛙などここに棲む生き物たちの様子はどうかなと畔を歩きながら観察する。
この日ひとつの株から稲穂が出ていたのを見つけた。出穂(しゅっすい)がはじまったのだ。
視線を遠くに移すと、あちらにひとつ、こちらにひとつという感じで、数株同じように穂が顔を出していた。空気を大きく吸い込むと、お米の花の独特な甘い匂いも微かに感じるから、すでに開花もはじまってるみたいだ。
数日後、同じ田んぼに行くと、より多くの穂が出ていた。出穂のスピードに驚く。
インターネットある人が「出穂前の稲は茎の元で穂の素ができて、妊娠状態になってる。だから出穂は出産のようなもの」と話していたのを聴いて、なるほどと思った。
出穂期を迎えた稲は、全てのエネルギーを穂に使うと言われている。穂を出し、花を咲かせて受粉し、実を熟させるためにこれまで蓄えた養分を利用する。それは、お母さんがお腹で胎児を育てる様子を彷彿させる。お米の粒が大きくなるにつれ、栄養を吸われた葉や茎、根は徐々に枯れていく。子孫を残すために力を使い果たして親は老いるのだ。それは子育てそのものだ、と自分の姿と重ねて思う。
お米は糧であると同時に種でもある。籾のまま保管し、翌年田に蒔けばまた芽を出して米をつくる。これもまた、遠い昔から、祖先たちが僕たちに繋いでくれた生命のバトンと一緒だ。いま僕がしていることはここで終わりではない。子どもの世代、孫の世代、そしてもっと先の未来に引き継がれていく。子の成長に一喜一憂し、日々子育てに悩む僕。目の前の稲に「それでいいんだよ」とそっと勇気づけられた気がする。
その後、穂は順調に増え、出穂期を迎えている。穂には可憐な白いおしべが見える。しかし、今年はこの時期には珍しい長雨となっており、受粉そして登熟がうまくいくか心配してる。