うっすらと霧がかった湿った空気の中、計美さんの家に向かうぬかるんだ道を歩いていくと道の脇にあるかや(すすき)の穂の先にちいさな水滴が光っていた。夜に雨が降ったのだ。
しばらく歩いていくと畑が見えてきた。りゅうきゅうの株に籾殻がかけられている。こうやって寒い冬の間は株を守り、来年の春、守られた株の間からりゅうきゅうは茎をのばす。
畑には大根を埋めた土の山もあり、その上に藁を傘のようにかぶせている。雨がしみこまないようにそうするのだ。一度抜いた大根をそのように土に埋めておくと、冬の間、大根がしびる(腐る)ことなく食べられる。
庭に置かれたドラム缶の上に、切り干し大根を乗せた干し網がいくつも置かれていた。干し柿も軒下にずらりと干されていて、雨に濡れないようにシートがかかっている。
全部、計美さんがしたしごと。
計美さんと初めて会ったのは5年前。
友人が「溜井(ぬるい)地区に行ったら、計美さんと豊喜さんに会いに行ったらいいよ」と紹介してくれたことがきっかけだった。
地図で調べてみると計美さんの家へつながる道は2つあった。地図にはこちらは「山道」、あちらは「舗装された道」なんてことは書かれていない。
いちばん初めに訪れた時、地図を見ながらなんとなく私が選んだ道は「山道」の方だった。その山道はうっそうと茂った杉林の向こうへとつながっていた。一本の細い山道をおそるおそる進んでいくと、道の途中に車一台渡れるか渡れないかという幅の小さな橋があり、その橋の向こうは急に上り坂になっていて先が見通せない。橋の下の川は昨日雨でも降ったのか、ごうごうと音を立てて水が流れていた。これ以上車では行けないと思ったが、戻ろうにも来た道をバックで戻る技術が私にはなかった。
前へ行くしかない。
ええい!と半ばやけくそでその橋を渡り、アクセルを思い切り踏んでじゃりじゃりした山道を一気に登り、カーブを曲がりきったところで急に視界が開け、ハウスが見えた。
よかった、建物があった!助かった!と思ったことを今でもよく覚えている。
地図の通り、そこが計美さんの家だった。
私はそれから一度もその山道を通っていない。
はじめて会った計美さんは、連絡もせずに突然来た私を温かく迎えてくれた。「溜井に行ったら計美さんに会ったらいいよ、と言われて来ました」と確か言ったと思う。そうかねそうかね、と笑って、ハウスで育てている野菜を見せてくれたり、計美さんが漬けたらっきょうや干しかをどっさりお土産に持たせてくれた。はじめて会ったのに構えることなく、嫌な顔をすることもなくにこやかに迎えてくれたことが本当にうれしく、計美さんの人柄に惹かれてそれからずっとお付き合いさせていただいている。
計美さんは「和田農園」という屋号のトマト農家であり、ご主人の豊喜さんと共にお米、野菜、加工品などを作っている。和田農園のトマトのような、あんなに甘くて「トマトの味」がぎゅっと詰まったトマトはそれまで食べたことがなかった。夏の食卓にトマトがあがると、こどもたちは「これは計美さんのトマトやね」とちゃんとわかる。
計美さんは「もしもし、計美ですー」とよく電話をかけてきてくれる。
「玉ねぎの苗、いるかえ?いるんやったらあがっておいで」。
「かぼちゃがあるけ、取りにあがっておいで。」
いつもその言葉に甘えて私は「あがっていく」。
計美さんのお家は標高600メートルのところにあって、車一台やっと通れるようなくねくねした山道をのぼっていく。道の途中で、山水が流れる上にかかる小さな橋をいくつか渡る。
春は田んぼの畔にゼンマイやワラビがたくさん生え、きんぽうげやれんげが咲く。
梅雨の時期には、緑一色だった山に水色や淡いピンク色の紫陽花がふわりと色を添える。
秋には棚田の黄金色の稲穂が風に揺れ、金色のじゅうたんが何枚も広がっているように見える。
冬は雪化粧した遠くの山々からほおを刺すような風が冷たい風が向かってくるけれど、その風が運んでくる空気はここにずっと立っていたいと思わせる。
計美さんの家へ向かう道のりは季節ごとの顔をのぞかせ、通るたびに美しいと思えることは素晴らしいことだと思う。
家のそばまで来ると見下ろすように棚田が広がり、そこには気持ちの良い風が吹いている。いつも腕を広げて深呼吸がしたくなるような場所。
計美さんの家にあがっていったら手伝いをする。
草ひきや野菜の袋詰め、6月に行うらっきょうのひげ根を取る作業は毎年の楽しみ。畑で収穫したらっきょうのひげ根を包丁で切り取り、山水で洗ってから塩漬けし、さらに甘酢で漬けるのだ。このらっきょう漬けが最高に美味しい。娘は「母さんが漬けたのよりも、計美さんのらっきょうの方がおいしい」と言う。ちょっと悔しいけれど、それは事実なので仕方ない。
午前中から手伝いに行った時は、計美さんが作ったお昼ごはんが待っている。
山菜炊き込み御飯、季節の野菜のかきあげ、ぜんまいの煮物、こんにゃくのおさしみ、漬物…。全て和田農園でつくっているものでできていて、とても美味しいからつい食べ過ぎてしまう。豊喜さんが入れてくれる食後のコーヒーも楽しみ。おなかも心もいっぱいになるのだ。
計美さんは季節の保存食づくりの名人でもあり、味噌、漬物、干し大根、東山(干し芋)、干したけのこ、山菜、干し柿、にんにく味噌、こんにゃく、ブルーベリージャム…作れるものは何でもつくる。そしてどれもこれも絶品。
春には太陽の下ぜんまいやたけのこを干し、夏にはハネのトマトで作ったトマトジュース、秋には干し柿がつるされ、冬には切り干し大根を乗せた網が並ぶ。
教えてほしいことを尋ねると計美さんはなんでも教えてくれるし、その時の庭先の風景も大きな学び。
計美さんのところへ行くたびに、この時期にはこのしごとをするんだよということを教えてもらってきた。
計美さんは私にとって、季節のしごとの師匠でもある。