我が家は今年3月、私を含め家族の内3人が陽性になったのだが、お医者さんが言うには稀に何度も感染する場合もあるらしい。これはあくまで私の体験なのだが、多くの人が新型コロナウィルスに感染している今この時のことを記しておきたいと思う。
自宅での過ごし方
幸いにも体調は順調に回復している。子供たちは学校のノートパソコンを借り、オンライン授業を受けている。朝8時30分から繋がるのでいつも通り起き、朝ご飯を食べ、学校に行けないということ以外は普段と同じように1日を過ごす。画面越しに先生や友達とやりとりできて嬉しそうだ。同じく欠席中の友達が何人もいて、お互い手を振ったり、休み時間には教室の友達や先生と話している。その表情から、子供にとって友達や先生の存在は大きいのだと感じる。
先生は教室で授業しながら、画面の向こうにいる子供たちにも声をかけてくれる。学校でこれだけ流行っている中、自身の健康を保つことだけでも大変だろうに、日々の授業準備や学期末の面談も重なって本当に大変だと思う。加えて、頻繁にかかってくるだろう欠席や検査結果報告の電話対応、学校に来る子供たちの学校生活を回転させていくこと…。学期末ということも重なってやることは満載、パンクしそうなのではないだろうか。学級閉鎖、学校閉鎖になるかと思ったがそうはならなかった。
普段私たちは医療が必要な時は病院へ、子供たちは学校へ行くことを当然のように思っている。が、それは決して当たり前のことではない。当然と思われる営みが成立しているのはその場に立つ人たちが現場を必死に守ってくれているからだ。
コロナ禍になって丸3年、どの現場も綱渡りの緊迫した状態で、その中でもがき、何とかやりくりして日々を乗り切ろうとしているのが現状ではないだろうか。感染するかもしれないという不安、周囲の人が、自分が、家族が感染したという現実。その狭間で皆が必死に踏ん張り続けている。
我が家の場合、自宅で過ごせる位の軽い症状だったが、入院治療が必要な人もたくさんいる。ニュースでは感染した人や亡くなった方の人数が毎日何百人何千人と発表されているが、これは単なる数字ではない。一人ひとりの人がそこにいることを示す「1」は重い。「1」の向こうにその人を取り巻く人たちもいる。一体どれだけの人たちがこのウィルスと戦い、翻弄されているのだろう。何とか生活を回していかなくてはと懸命に、必死に、毎日を乗り切ろうとしているのだと思う。
助けてくれる人
今回私は陰性だったが、症状として頭痛があり咳が重かった。胸の奥から咳が込み上げてきて、咳をするたび苦しい。昨年3月に陽性になった時は倦怠感がひどく、起きること自体がしんどかった。できることなら一日中寝ていたかった。子供や持病のない若い人は体力があって回復が早いことが多いと聞くが、持病がなくても、あの咳や熱や倦怠感が伴った生活はかなりエネルギーを奪われる。
持病を持っている人や高齢で一人暮らしの人が感染した場合、体力的にも精神的にも状況を乗り切ることが本当に大変だと思う。誰か買物など助けてくれる人や声をかけてくれる人が近所にいるだろうか。実際、助けてくれる人がいると思えるだけで心持ちが全く違う。その存在のあるなしが乗り切れるか否かの境界と言っていいと思う。
ひとりじゃない
友人から「買い物行くんだけど必要なものある?一緒に買って届けるよ」というラインやメールが届く。玄関先を少し開けて「元気にしてる?」と立ち寄ってくれる友人も。果物やパン、作ったスイートポテトを差し入れてくれた人も。その気持ちが本当にありがたいと思う。私は人に生かされている。ひとりじゃないという気付き、ありがとうと感謝する気持ちが、靄がかかったような頭を軽くしてくれる。もしそれがなかったらと考えると恐ろしい。私は皆に支えられて生きていることをあらためて実感する。
普段から「大丈夫?」「何かできることはある?」と声を掛け合い、困った時は「助けてほしい」「手伝ってほしい」と言い合えるような、互いに助け合える人間関係をつくっていきたい。その関係は人間が人間として生きやすくなる方法の一つだと思う。伝え合える、言い合える関係を作れるかどうか。とても難しいことでもあるが、とても大切なことだと分かっているから諦めたくない。
相手を思いやる一言やさりげない何気ない気遣いが、自分の知らないところで誰かを支えているものだ。その何気なさの威力はなかなかのものだという自覚を持っていいと思う。優しくされたら嬉しいし、その優しさはその人が向き合う人へと伝播していく。これは私が40数年生きて感じている実感だ。それは自分は一人じゃないという気付きになる。一人じゃないという思いは人を強くさせる。
私はひとりじゃない。あなたはひとりじゃない。そのことをちゃんと覚えていたいと思うし、覚えていてほしいと思う。
2022年、コロナ禍丸3年。あと数日で新しい年を迎えようとしている。これからの未だ見ぬ日々がどうか少しでも良い方へ、どうか少しでも明るい方へ向かうようにと願っている。
写真:自宅待機中、友人が届けてくれたスイートポテト。