朝から雨が降ったり止んだりが続き、いつもより少し涼しく感じられた日のことだった。
7月中旬、稲が青々と育つ田の中で黙々と仕事をしている人がいた。つばの広い帽子をかぶり、手袋とアームカーバーを身につけ、長袖長ズボンを履き、足元は長靴。手にくわを持ち、背中には背みのをつけていた。
青い稲の中を潜るように、這うように、頭を低くしながら少しずつ移動している。しばらくその体勢は続き、やっと体を起こした時、お腹のところに草の束を抱えているのが見えた。そして長靴の足元を持ち上げるように、一歩ずつ、一歩ずつ、田の端まで歩いて行き、どさっと束を投げた。そして、またゆっくりと、さっき手を止めた場所まで戻っていく。畦にはいくつもの束が投げ置かれていた。
稲の高さは約50センチくらい。よくよく見ると、稲とは別の、同じくらいの背丈の草がところどころに生えていた。この草を抜くために、稲の海に潜りながら広い田の泥の中を移動していたのだ。泥は重い。ずしりとした一歩がいつまでも続くような、とてもしんどい作業だ。沈めた顔には稲の葉の先が当たり、相当ちくちくすると思う。
こうやって人は稲を育て、お米を作り続けてきた。何百年も前から続けられてきた営みの一片を垣間見た思いだった。
これは夕方5時くらいのこと。暑くうだるような日が続く中、この人は少しでも涼しい時を選んで仕事をしているのだろうなと思った。
お米づくりは植えて終わりではない。草取りや日々の水の管理、台風が来れば気を揉み、危険を承知で田は大丈夫かと見にいく人がいる。目配り気配りの積み重ねがあってこそ、お米は成長する。
私は自分でお米を作る知識も経験もない。育てる人の姿を近くでただ見ているだけで偉そうなことは言えないのだが、今、マイクを持って声高に叫んでいる政治家の人たちに、お米を作っている方々の姿を少しでも知ってほしいと思う。真夏の夕方に腰をかがめ、田の草を一本ずつ抜き取っている人がいること。常に田の様子に気を配り、その時必要な仕事を熟知し、行動している人たちがいるからこそ、秋にお米が収穫できる。その過程にどれだけの汗が流されているか。そのことを少しでもいいからどうか分かってほしい。そう切に願う。