応仁の乱から百年余りが過ぎ、やっとのこと平和が訪れようとしておった。
その頃、南越村(みなごしむら・現在の北境)の名本(今の区長さんのような仕事をする人)藤大夫(ふじだゆう)の弟で和田孫三郎が須山に分家した。
それがこの地に人が住むようになった最初であった。
その下方には十二戸の百姓が住み、長い戦乱に生き残ったのは、蛇神様が守ってくれたおかげだと、住民は毎日酒や魚を供えておった。
杉の平から落ちて来る谷川に蛇渕があって、大きな蛇が棲んでおった。
渕は青々として底は知れず、周りはしめなわで囲まれ、色とりどりの花が飾られておった。
住民は幸せで、境村や和田村から多くの人に来てもろうて盛大に蛇神様祭りをしておった。
それは天録から宝永にかけてのことじゃった。
いつの間にやら蛇神様が南越村の蛇渕へ移っちょった。
「これは大変じゃ。どうやったら戻ってくれるろう。」とさわぎよった。
ちょうどその頃雨が降り始めた。雨は毎日降り続き、次第に滝のような雨になった。そして急に山が崩れて、十二戸はアッと言う間もなく八ヶ内川に押し流されて生き残った人はいなかった。
反対に、南越村は五戸しかなかったのに、方々から人が来て二十三戸になりにぎわった。
そして、それはそれは盛大な蛇神様祭りをしておった。
そんなことが百年余り続いたある年、「どうも近頃蛇神様が見えんようになったが、どう言うもんじゃろう。大夫さんに見てもらおう。」と言うことになり、毎日毎日笛や太鼓で蛇神様迎えの祭りをしたが、帰って来てはくれざった。
それから間もなく、大崩れがしたり、伝染病で家が絶えたりして、昔の五戸に戻ってしもうた。
それから久しいことたってから、蛇神様は汗見川へ移ったことが分かった。
そういうことは、地元の人は気付いてない風であったが、石ころだらけで人の住める所ではなかった沢ヶ内に人が来て住みだし、やがて店もでき大きい集落となったそうじゃ。
和田輝喜(「土佐町の民話」より)