山内氏入国と兵農分離
近世、徳川家康が江戸に幕府を開いたころの土佐町地域の話です。
1600年、徳川家康が天下をとった「関ヶ原の戦い」で、戦いに参加せず敗走した長宗我部盛親は、その後家康の怒りを買い、土佐国を没収されてしまいます。
それにより、それまで四国を支配していた長宗我部氏は滅亡。
土佐新国主に任命されたのは、山内一豊でした。
尾張の豪族出身で、戦国時代に活躍して大出世を果たした一豊ですが、土佐では山内氏入国に対して大反対にあいます。
長宗我部氏の統治下で半農半兵として生活していた「一領具足」たちが、山内氏により「兵農分離」が進められることについて激しく抵抗したのです。
長宗我部氏の遺臣たちが浦戸城下に馳せ集まって、浦戸一揆が勃発。
50日間の奮闘もむなしく彼らは敗北し、293人の犠牲者を出す悲劇に終わりました。
その後土佐町地域でも、容赦なく兵農分離が進みます。
すべての土地は武士のもの。一領具足は所領を没収されて農民となる。
もちろん農民となれば年貢を納めなければなりません。
本山郷でも、その年貢を出し渋って反抗した高石馬之助兄弟による滝山一揆が起こりましたが、やはり山内氏によって土佐国から追放されてしまいます。
当時、森郷領主であった森氏は名家の誇りを捨て、瀬戸村で農民となる道を選んでいます。
森氏没落ののち、西の土居は山内氏の直領(蔵入地)となり、近隣の手作地であった土地は山内氏の家臣・安田氏に知行地として与えられました。
土佐町地域では、平野部と比べて兵農分離が1~2年遅れたこと、また蔵入地が少なかったのは(知行地に対し約1/4)、嶺北から城下に米を輸送するのが楽でなかったことや、「まず城下に近い平野部を掌握して権力の安定を図ろう」と考えた山内氏の思惑を知れば納得、ですね。