笹のいえのこと
「笹のいえ」との初めての出会いは、もうかれこれ5年ほど前になる。
その頃から私は移住支援の仕事をしていて、ある日「平石地区に空き家があるよ」と教えてくれた人がいた。地図を開き、その家に鉛筆で丸をつけた。細い一本道をまっすぐ進んだ突き当たりにある一軒家。なぜかよく覚えているのだが、この日は気持ちのいい秋晴れの日だった。
ちょうどその頃、洋介さんと子嶺麻さんは住んでいた千葉県内や日本各地を訪れ、自分たちの暮らしをつくる場所を探していた。四国に住む友人に紹介されたことがきっかけで土佐町を知り、実際に訪れ、平石地区の家に行った。多分こうなるようになっていたのだと思う。あの時、何の気なしにつけた丸印が「笹のいえ」になった瞬間だった。
縁は、この世の中に確かに存在していると思う。あのこととこのことは繋がっていたのかと気づいたときにはもう、そうなるようになっていたとしか思えない。今この時があるのは、これまでの毎日の出来事や、さりげない決心や、人との出会いが重なって絡み合っているからだと思うと、どんなことにも何かしらの意味があって、無駄なことなんてきっとないのだと思える。
とさちょうものがたりの連載「笹のいえ」の一年間がぐるりと巡った時、笹のいえの歳時記が姿を現すだろうと思っていた。それはきっと土佐町の人たちが共感できるものであろうし、もっと言えば人間が共有できる何かが浮かびあがってくるような気がしていた。
春には春の喜びが、夏には夏の楽しみが、秋には秋の風が、冬には冬の暮らしがあることを、心の深いところにある何かに語りかけるように思い出させてくれた。はるか昔から田畑を耕し、種をまき、四季折々の仕事を積み重ねながら引き継いできた暮らし。先人たちが歩んで来た長い長い道の先に今の私たちがいる。それはきっとコンクリートの上ではなかなか感じられないことだ。この地の土の上に立ち続けてきた先人達の存在をいつもどこかに感じながら、「笹のいえ」は笹のいえらしく、土佐町での暮らしをつくってきたのだと思う。
ある日、洋介さんがこんな話をしてくれた。
今年の夏の台風の日のこと。山水を家まで引くパイプが詰まって、笹のいえの水が止まってしまった。こんなこともあろうかと台風が来る前に五右衛門風呂に水を貯め、水をたっぷり入れたタンクを用意していたので、まあいいかと家の中でのんびり映画を見ていたそうだ。外は大雨が吹き荒れる中、がらがらっと戸が開く音がした。そこには頭からすっぽり合羽を着た人がポタポタと雫を垂らしながら、両手に水のタンクを持って立っていた。
平石地区のその人は言った。「水、止まっちゅうろう?」。
「自分たちが知らないところで、自分たちのことを考えてくれていた人がいたことが本当に嬉しかった」と洋介さんは言っていた。
あの人はどうしているだろう、そう思ってその人が「普通」にしたことが、誰かの心にあかりを灯すことがある。
「どうしてこんな田舎に来たが?」「都会の方がよかったじゃろう?」この地で暮らし始めてから、私は今まで土佐町の人に何度この言葉を言われただろう。都会と田舎のどちらがよいという話ではなく、どうか知ってほしいと思う。その「普通」に支えられている人がいるということを。そしてその「普通」が、実は特別なのだということを。
笹のいえに行くと、いつも心地いい風が吹いている。それは笹のいえの縁側がポカポカと暖かいからだろうし、台所のやわらかい橙色のあかりの中をいったり来たりする子嶺麻さんの足音が心地いいからだろうし、この家が今も今までも、ずっと変わらずに大切にされてきた気配を感じるからかもしれない。
以前洋介さんが私に言ってくれたことがあった。
「百合子さんは百合子さんでいいし、僕は僕でしかいられない。変わらないってことじゃなくって、そのときはそのときの自分がいるってことで、それを否定なり、ときには肯定もできない、というかその必要がないのだろうと思うよ」。
この言葉にずい分救われた。
笹のいえを訪れると、この家が「あなたはあなたでいいんだよ」と言ってくれている気がする。それは、この家で暮らしている洋介さんと子嶺麻さんの生きかたでもあると思う。
世のなかにはいろんな人がいて、いろんな考えがあって、いろんな生きかたがある。これが正解とかこれが間違っているということではなく、それぞれの場所で、それぞれの選択をしながら、人は生きる。
笹のいえは今日もあの場所に在る。そう思うだけで、何だか今日も頑張れそうな気がする。