(前編はこちら)
彼女の語る言葉は私にとって迫力があり、戦争の恐ろしさを教えてくれただけではなく、人間の強さや立ち上がる気力も物語っていて、どんなに困難な時でも、人生に花咲く可能性があることを教えて下さいました。
以下は、彼女の語ってくれた言葉をそのまま書き下ろしたものです(省略が少々入ります)。
「私は18歳の時に挺身隊として長崎にいました。原子爆弾が落ちた時、それをはっきり見ました。遠かったけどね。ピカッ!と赤い光が見えて、爆発しました。遠かったけど、しっかりと灯りは見えました。その時はね、爆弾の警報もなくてね。近くにね、防空壕があったのに、空襲警報がなかったから入らなかったの。だから見えたよ、綺麗にね。煙がとても濃くてもくもくと、空の上まで、遠くまで届いて。それも見えたの。怖くはなかったね。でも、わー!すごいねーってなった。」
「その後高知へ戻って来たんだけど、その帰りの電車も人でいっぱいでね、人が人の上に乗っかってるみたいでね。怪我をした兵隊さんや、私みたいに故郷へ帰る人、そんな人たちが電車にいました。それで帰ってきたの。ここにいられてとても嬉しい。なんだか世界を旅した気分になります。被爆した人も見てね、帰りに広島も通りましたけど、まだ煙が残っててね、街はなかったです。」
千恵野さんは土佐町へ帰って来てから、役場で2年間働きました。彼女の実家は現在早明浦ダムになっているところにありました。そして22歳の時にご結婚されました。
「その当時はね、大きな結婚式はしなかったの。それでね、本当に簡単な結婚式。家族が集まって、まあ花嫁衣装はつけていたけどね。土佐町でずっと住んでね、田んぼもとっても少なかったのを働いてね。それで、たくさん働いてね、今はこんなに広い土地になりました。これは(指輪)はもう、何十年も(結婚)してから新婚ではない時に、(旦那様が)団体で旅行に行って、その時のお土産!7年前に亡くなってしまったけれども。もう、主人は本当に働き者でね、主人が川から石を運んできて、ここの家の周りの壁も作ったの。ここは大きな茅葺の家だったの。それを少しづつ直していったんです。」
千恵野さんの家はとても素敵なお家で、大切にされていることが感じられます。
有名な赤牛がとった賞も綺麗に飾ってあります。千恵野さんは、旦那様が赤牛が大好きで、ある日買うことを決断したお話しをしてくれました。
最初は黒い牛2頭から始まり、そこから赤牛が非常に良いと聞き、今に至っているそうです。(現在も赤牛を飼っていらっしゃいます)。
「一番多い時には8から9頭いました。土佐町で赤牛を増やしたのも、うちの主人なんです。とても美味しくて肉質が良いと聞いて。だいたい主人はうんと好きでね、牛が。それで、賞もとってね。赤ちゃんの牛もとっても可愛くてね。あれはね、順々にお母さんから生まれてきて、だいたいお産の時にはね、手伝ってやらんといかんがですわ。でもね、今できてるのはね(今ここにいる子牛)、朝起きて見にいったらできてるんですよ!それでもう生まれててね、小さかったの!小さい牛だったけど、お乳はたくさん飲んで太って太ってね。最近はね、本当に普通の子牛とおんなじ大きさになりました。」
この日、私たちは千恵野さんの息子さんにもお会いし、飼っている赤牛の元へ連れて行って頂きました。その赤牛は本当に赤く、優しい目をしていて、柔らかい毛だった事を覚えています。本当に充実した一日でした!袋いっぱいのゆずと栗をいただき、千恵野さんのご自宅を後にする瞬間、このお家には長い歴史があり、地道な苦労や作業によって赤牛を飼って、成功に繋がっているんだな、と改めて思い巡らし、有り難い気持ちでいっぱいになりました。私たちは、貴重なお話、そして人生のゴールに向けて根気強く、熱心に向かっていく強さを教えて下さった千恵野さんに、とても感謝しています。