ある日、私は松茸を受け取った。
私は未だかつて本物を手にしたことはなく、驚きと嬉しさと共に、どう扱っていいものか考えあぐねた。まずは、以前どこかで見たようにそれらしく編み籠に入れてみようと考えた。家にあった籠を引っ張り出して、うやうやしくそっと入れた。籠に入った松茸は、いかにも松茸らしい風格を醸し出していた。
次に私がしたことは、松茸の籠の置き場所を探して家の中をウロウロすることであった。やはり家の入り口である玄関がいいだろうか。いやいや、日が当たる場所でせっかくの松茸が乾燥してしまってはいけない。それでは玄関横にある本棚の前はどうだろう。そこは本やら荷物やらが積み重ねてあるから、せっかくの松茸が荷物と共に埋もれてしまう。そうなったら最後、子どもたちはその存在に全く気づかず、その前を通り過ぎてしまうだろう。学校から帰ってきたら「松茸だ!どうしたの?」と私に聞いてほしい。その様子を思い浮かべるだけで口元が緩んでしまう。
しかし大変残念なことに、子どもたちは本物を目の前にしてもそれが松茸であることがわからないだろう。いまだかつて食卓に上がったことはないし、どこか旅行に行って「山の幸御膳」たるものを注文し、ほんのおまけ程度に松茸がついてきたことはあったかもしれない。が、そのときには元の形は跡形もなく、小さく切られてしまっているのだ。山で生えていたままの本物が目の前にある今こそ、これが松茸なのだということをぜひとも実感させたい。そんなことを色々考えながら、籠を抱えて部屋から部屋を行ったり来たりした。
結局、毎日食事をする木の机に置いた。横を通りかかる時、いつもチラリと見てしまう。籠の隣には新聞や学校からの手紙も一緒に置いてあるので、これではありがたみも失せるというものだ。机の上を片付けて堂々と真ん中に置いた。松茸とはこうあるべきだと大変満足したのであった。
さて、この松茸がどのようにして我が家へやってきたのか。そのことをお話したいと思う。
松茸は山にあるもの
10月のある日、いつもお世話になっている土佐町の近藤雅伸さんから電話がかかってきた。
「あ〜〜、近藤やけども」。近藤さんの声は今日も大きい。でもいつもと何かが違った。いつもと何か違うことを言いたい時は、電話口からでもその空気は伝わるものだ。
「松茸、いるかよ?」
「え?」
「え?じゃない、まつたけ」
「え!松茸?松茸ですか?」
何かの聞き間違いだと思い、私は何度も尋ねた。
何度聞いても、近藤さんは「まつたけ」と言っているのだった。
松茸は、近藤さんの山で収穫したのだそうだ。そろそろ時季かなと思って、山の中のとある場所へ行ってみたら、いくつもの松茸が円を描くように生えていたという。
近藤さんをはじめ山で暮らす人は、自分たちの「場所」を持っている。松茸はもちろん香茸というきのこも同じ時季に収穫できるのだが、それぞれの人にとってのとっておきの場所がある。自分の子どもにさえその場所を教えていない人も多いと聞く。山の秘密、自分だけの秘密。なんとゆたかなことだろう。コンクリートの上ではそうはいかない。
松茸は毎年同じ場所に生えるとは限らないそうだ。松茸の菌が松の木の根っこにくっついて松茸ができるという。生命の神秘。自然の恵みをいただいて人間は生きているのだ。
近藤さんにそう話すと「自分にとっては、松茸は特別なものというよりも、あるものを食べるという感覚」なのだという。「自分の足を使って山へ入ったら松茸がそこにあって、取って食べたらうまい。そう思うだけ」。
それは、山と共に暮らしてきた人だからこその言葉だ。
香り松茸、味しめじ
先日、テレビで「サザエさん」を見ていたら松茸をテーマにしたお話があった。松茸が食べたいというカツオにサザエさんは「“香り松茸、味しめじ”という言葉があるのよ」と諭すように話していた。松茸の香りは素晴らしいけど、味はしめじの方がいいのよとサザエさんは言いたいらしい。私はしめじの炊き込みご飯が好きでよく作るのだが、しめじの香りだって負けてはいないと思う。決して負け惜しみではない。
私の数少ない松茸に関する思い出は、中国産のものをスーパーで見かけたり、小袋に入った「松茸の味のお吸い物」の粉をお湯に溶かして飲んだことがあるくらいだったが(ちなみにお吸い物は美味しい)、そんな私にもついに松茸を調理する日が来た。是が非でも、その香りがしめじよりも勝るのか確かめたい。
近藤さんによると、石づきの部分をナイフで鉛筆を削るようにそぎ、あとは好きな大きさに切るらしい。松茸だからといって特別扱いはせず、あくまでもいつも通り、自由に調理していいのだ。
松茸ごはんを作る
まずは王道である「松茸ごはん」から。新聞に包み、冷蔵庫の野菜室の一番いい場所に入れておいた松茸をまな板の上に並べる。何だか緊張してしまう。さっき読んだばかりの作り方を何度も復習した。
キッチンペーパーでそっと汚れを落とし、近藤さんに言われた通り、鉛筆を削るように松茸の石づきを削った。
土のついたその部分を一回か二回、そっとそいだ。もうそれだけで驚いた。それは初めての香りだった。これが松茸か!
昆布だしにお酒、醤油、塩を加え、給水していた新米の上に松茸をのせ、炊飯器で炊いた。炊飯器からシュッシュッシュと湯気が出始めたころ、家中が松茸の香りでいっぱいになった。確かにしめじよりも勝っているかもしれない。この香りを一人で吸い込んでいることが何だかとても贅沢に思えた。
その日の夕食は、松茸ごはん、松茸と豆腐と三つ葉のお吸い物。松茸ごはんを息子が大変気に入って何杯もお変わりし、長女はお吸い物の入った鍋を空っぽにした。
次の日の朝、ほんの少し残っていた松茸ご飯を「もうこれで終わりか…」としみじみと味わって食べていた息子。また明日も食べたいと言っていたがそれは無理というものだろう。せめてしめじごはんを炊いてやろうと思う。
季節ごとの山の恵をいただく日々。
自ら収穫したものを惜しげもなくお裾分けしてくれる人がいる。
自然と人の懐の深さに触れることで、私はどんなに救われてきたことだろう。
近藤さんは「喜んで食べてもらえたらうれしいんよ」といつも言ってくれる。私はいただくばかりで、いまだに何も返せずにいる。