(中編はこちら)
ただちに名主に報告され、順太の国元へも死体発見は知らされた。
役人は その翌日検死のために部落に来たが、よそ者の死に対する村役人の処置は極めて冷酷なものであった。
何処かで仕事中事故死していた順太の死体がたまたまの出水に流れて来たと断定して帰っていった。
村人達も順太の死因についてはガンとして口を割ろうとしなかった。やがて阿波からは母親お清が、順太の姉と共に死体引取りにやって来た。
そして、現場にコモをかむされている順太の死体に涙と共に対面した。この秋には可愛いい一人息子の順太にはお花と言う美しい嫁が 来る、その日を一日千秋の思いで指折り数えて待っていたのは順太にもまして此の母親ではなかったろうか。
焼野のきぎす夜の鶴はえば立て立てばあゆめの親心、世に子を思わぬ親があろうか。
順太の死因が他殺である事は一目遺骸を見た時歴然としていたし、血を分けた可愛いい吾が子の死因が、此の母親にわからぬ筈はなかった。
が、しかし村役人の検死もすんだ今殊に異郷の地で、女ばかりの彼女達には今更 その死因を追求することも出来なかったのであろう。唯、彼女の心中は悲しみと憤りで一杯だったのであろう。
涙も枯れ果てたお清母娘は順太の遺骸を箱におさめた。そして彼女はき然として言った。「順太 くやしいであ ろうが お前の遺体は 此の母が連れて帰ってやるが、順太お前も男なら魂魄、永久に此の地に留まりかたきをっ 」と言いおいて、その翌日阿波屋の人夫に付添われたお清母娘は、順太の遺骸と共に阿波に帰って行った。
一方、お花は順太が若者に殺されたその夜から床についてしまった。玄安夫婦の優しいいたわりの言葉にも口を割ろうとはせず、寝床で泣いていたが、お清母娘が阿波に帰ったその翌日、丁度、両親の留守中にお花の結婚準備に母親の作ってくれてあった白無垢赤無垢の嫁入衣装を身にまとい自宅より約四百メートルも上方の大きい石の上に上り踊り始めた。
彼女は順太恋しさに遂に発狂したのである。
折柄、初秋の夕日をあびて岩頭に順太の名をよびながら踊り狂うお花の姿は、遠く対岸の農家からも見られたが、村人達は二目と見ることができなかっ たという。
そして三日目精魂つき果てたお花は遂に岩頭に倒れ息絶えていたのである。以来この石を里人達は不登の石と呼び、百三十年の星霜を経た今なお、部落の人達はこの石に登る事はタブーとされている。
現在も植林の中にお花の悲しみを秘めた石はそのままの姿で、お花の悲恋をいたむかの様に残っている。
さて、その後、此の部落には不幸な事が続いた。ある時は木材伐採の人夫が仕事中に大けがをして死んだ。又ある時は昨日まで元気だった若者が発狂して廃人同様に成った。
ある家では若者が入浴中に頓死したり、川に流れた子供の水死体が丁度順太の遺骸が発見された川原の砂で発見された。
こうした不幸に見舞われた家の人達 は、お寺さんや神官さんをやとって御祈騰をした。その都度、順太のたたりだと神仏からのお告げがあった。
里人達はこれを順太狸と呼んで恐れおののいていた。そして、こうした不幸に逢った家では順太の霊を慰め冥福を祈って石の地蔵さんを作って立てたと言うが、依然としてくる年もくる年もこうした不幸な出来事は絶えなかった。
そこで名主は部落の主だった者を集め部落で順太の供養をすることに成った。
年号も変わって安政五年七月二十五日部落民は戸毎にたいまつを作り瀬戸川と吉野川の合流点に集り、あかあかと燃えるたいまつを川に流し念仏を合唱して順太の霊を慰めた。
その時部落で建てたのが今に刈谷橋に残る石の地蔵さん。以来星移り時は流れ て百二十有余年、今では順太のたたりも無く平和な部落のいとなみは続けられている。
そして、この悲しい恋の物語りも部落の人にさえ忘れ去られようとしている。
以上が順太お花にまつわる悲しくも哀れな物語りである。この物語りは昭和二十年の秋、足掛け三年目に召集解除されて帰宅した私が当時九十歳近くで病の床にあった部落の古老山中福太郎翁から聞いた話を要約したものである。
この福太郎翁は昭和二十五年に九十四歳で亡くなっているが、この翁の記憶に残っているのは安政五年に部落で供養した時のたいまつ流しに行った事、帰りにはこの下の清七ぢいに背負ってもらって帰って来た事」 であったという。なお順太以外の名は必ずしも実名でないとのことである。
町史 竹政一二三