「ひとつながりの中で」文:鳥山百合子
制作に5年をかけた絵本がついに完成した。土佐町の絵本「ろいろい」。この一冊ができるまで、たくさんの人にお世話になった。
絵を描いてくれた絵描きの下田昌克さんはもちろん、制作チームのメンバーや印刷を担当してくれたリーブル出版の小石晃弘さんと傍士晶子さん。表紙・裏表紙のシルクスクリーン印刷と製本作業をしてくれた土佐町のNPO法人れいほくの里どんぐりと大豊町の就労継続支援B型ワークセンター・ファーストの皆さん。そして、土佐町の人たち。絵本には実在の町の人や風景が登場しているが、写真をお借りしたり、詳しいお話を聞かせてもらったり。誰か一人でもいなかったら、この絵本は完成していない。この場をお借りして、一人ひとりの人にあらためて感謝の気持ちをお伝えしたいと思う。本当にありがとうございました。
果てしない事実
絵本制作真っ最中のある日、小学校5年生の娘がふとこんな話をしてきた。「あのさ、私は母さんから生まれて、母さんはばあばから生まれたんでしょう?ばあばはひいばあちゃんから生まれて、ひいばあちゃんもお母さんがいて…。一体どこまで続いていくんやろうね?」子どもは時々、簡単な言葉で真理を突く。「そうやね。ばあばがいなかったら母さんはいなかったし、ひいばあちゃんがいなかったらばあばはいなかった。誰か一人でもいなかったら、今、母さんは生まれてない。母さんが生まれてなかったら、紬(娘の名)も生まれてなかったんだよ」
そう答えながら、人間のつながりの果てしなさと、そこから娘にたどり着く過程をどう伝えたらいいものかとしばらく考え込んでしまった。が、ひとつはっきり言えることがあった。それは、その過程に登場する人物がもし誰か一人でもいなかったら、娘は生まれていないということ。そして、それは誰にでも共通する事実ということだ。
偶然か必然か
娘にとって直接知る先祖は「ばあば」と「じいじ」になるが、ばあばがじいじと出会わなかったら、私は生まれていない。だから娘も生まれていない。人が生まれるまでには、お母さんで繋がる軸だけでなく、お父さんの存在軸もある。現代にはまた違う軸もあるだろう。たくさんの人がいて、いくつかの選択があったかもしれない中で、なぜその人だったのか。お母さんとお父さんが出会ったから生まれる命。その出会いは偶然なのか必然なのか。人の存在の確かさと出会いの偶然性。何か一つでも違う選択をしていたら、別の誰かと出会っていたら、今ここに存在していなかったかもしれない。そう考えると、生まれてくるという過程は何と壮大で果てしないのだろう。「不思議やねえ」と娘は言っていたが、本当にそうとしか言えないなと感じる。
綺麗ごと
ある助産師さんがこんな話をしてくれたことがあった。「“命って素晴らしい”とよく言うけれど、それはどこか綺麗ごとに思える。助産師として命の誕生する現場に長年立ってきたけど、生まれた後の大変な現実もたくさん見てきた。貧困や家庭内暴力や育児放棄、いじめや望まない妊娠…。そういったことが繰り返される現実を知っていると、簡単にそう言えない」絞り出すように話してくれた。
毎日のニュースでもその現実を見聞きしない日はない。それが現実で、その現実に押し潰されそうになる時もある。だから綺麗ごとを言うつもりは全くない。でも、それでも、どんな現状であっても、その人が生まれてきたこと自体はとても尊いことだという思いは持ち続けたいと思っている。
自分のルーツである一本のか細い糸をたどり、また違う糸をたぐり寄せながら、結ばれたり切れたり、絡み合ってどうしようもなくなって、ぐちゃぐちゃになってほどけなくなったり。さまざまな過程を経て、誰しもがここにいる。つながった糸の先で人は存在してきたし、存在している。繰り返しになってしまうが、そのこと自体はかけがえのない、奇跡のようなことなのだと思う。
「紬が生まれたことはかけがえのないことなんだよ。紬だけじゃなくて、家族も友達も、日本中世界中の人もみんな同じ。みんなにお母さんやお父さん、おじいちゃんやおばあちゃんがいて、ずっーと昔からつながってる。つながって、つながって、そうやってみんな生まれてきたんだよ」上手な答えじゃないかもしれないけれど、娘にはそう伝えた。
「人という人はない」
生まれきたら、人は誰かしらと出会い、家族や仲間になり、それが家庭や地域や村や町をつくる。一括りに地域だ町だ市だ国だと言うけれど、一人の人が、あの人が、この人が、名前ある人がその人の場所にいるからこそ、その括りは意味を成す。日本の植物学の父と呼ばれる牧野富太郎博士は「雑草という草はない」と言っていたというが、その言葉をお借りすると「人という人はない」。人には名前があって、それぞれ立っている場所があって、もがきながら悩みながらその場で必死に生きている。簡単に一括りにはできない。便宜上、人を一括りにする必要がある時、たとえば人数や確率など数字として表す場合など、その考え方や使い方によっぽど気をつけないといけない。
土佐町の絵本に登場する風景は、生きているあの人がこの人が、かつて生きていたあの人がこの人が作り上げたものだ。たとえ描かれていなくとも、今の風景があるのは今生きている人と、この地で生きてきた先人たちがいたからこそ。もし誰か一人でもいなかったら今の風景はなかったし、今この時はなかっただろう。だから一人ひとりの人が、誰しもが、かけがえのない存在なのだと思う。あの人がいる、この人がいる。あの人がいた、この人がいた。その尊い事実はこれからも決して失われることはない。それぞれの人が持つ糸はこれからも姿形を変えながら、何かにどこかにつながっていく。そのひとつながりの中で私たちは生きている。絵本を通し、そのことが少しでも伝わればうれしい。