「大渕・古味・井尻・下川・上津川」という地区があります。
今では、20数名しか居住者がいませんが、昭和の中期には700名を超える住民がいました。
今回は、この5地区で、かつて起こった熱い闘いの物語です。
森村・地蔵寺村・田井村の3村が合併して土佐村となったのが昭和30年のこと。
当時、嶺西地域には森村・地蔵寺村・田井村・吉野村の4村あり、その4村が合併について協議していました。
吉野村では「本山町と合併せよ!」という8地区と「田井地区と合併せよ!」という5地区が対立。
この5地区が「大渕・古味・井尻・下川・上津川」です。
結局、決着がつかないまま、吉野村は多数決により本山町と合併しました。
それから約5年間、この5地区が本山町から分町をして、新土佐村へ編入合併する闘いが始まります。
土佐村に編入合併することについて、住民の直接投票に持ち込むための運動が約3年間にわたって展開されました。
その後、運動が実を結び、住民投票が行われます。
住民投票については、時間制限なし(夜間の運動可)、個別訪問自由ということで7日間、昼夜兼行で激烈な運動が展開されました。
その当時、5地区を合わせると754名もの住民がいたため、住民投票の当日はその警備のため100名もの警察官が派遣されたといいます。
住民投票の結果、0.66票の差で、分町反対地区民が勝利する形となりました。
この結果を不服とした分町希望者は、本山町選挙管理委員会、さらには高知県選挙管理委員会に対し再審査を要求。
しかし共に受け入れられず、法廷闘争へと突入します。
訴状をもって高松高等裁判所に提訴すること10数回、審理の末、分町派の5地区はついに勝訴の判決を得ます。
高松高裁は『再審査の結果投票で無効とされたものの中に有効票があり、分町賛成票が1.33票強であった』と判断しました。
これに対し、県選管が最高裁判所に上告しましたが、最高裁が高松高裁の判決を支持し、分町派勝訴の判定が確定しました。
そして、昭和36年、本山町のうち吉野地区西部5地区が土佐村に編入合併することになったのです。