「きのう何食べた?」 よしながふみ 講談社
登場人物(主にシロさん)の作る美味しそうなご飯が目に毒な漫画。誰か私に作ってほしい。
ゲイカップルのお話でもあり、2人の関係が年月を経て緩やかに変化していく様子やそれぞれの家族との関係性、他のゲイカップルとの交友関係などが描かれています。
よしながふみさんの漫画は基本的に素敵なものばかりだと思います。
和田亜美
著者名
記事タイトル
掲載開始日
山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。
人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。
土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?
みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!
(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)
出張中の車内、昭和生まれの職員が3人集まるとこんな話になりました。
「そういえばたぬきの油とかあったよね」
「何にでも効くゆーてね」
「うち、今でも冷蔵庫に入ってますよ」
「ホンマに効くがやろうかねぇ」
「でもたぬきの油、刺さったトゲを抜くのにはえいで!ちょこっと塗って一晩置いちょったら、トゲが抜けちゅうがって」
「ええー!何の成分なんやろう?」
「火傷にはよくアロエ塗りましたよね」
「フキとかも使いよった気がする」
「え?フキの葉?茎??」
「茎。消毒になるとかゆーて」
「ぼく、小さい頃、車酔い予防にゆーて、車に乗る前にセンブリ飲まされよったがよ。でもあれ苦いやん?そんなもん飲んで乗ったら余計酔うわね」
「センブリって腹痛用なんじゃ・・・」
「腹痛といえば、梅肉エキスとか、昔作りよった気がします」
「梅肉エキスって何?」
「梅の実を、黒うなるまで煮詰めたやつです」
「ええー、そんなん見たことない!」
「(インターネットで検索して)青い梅の実をすりおろして、汁をしぼったやつをアクをとりながら煮詰めるがやと」
「昔は薬とかなかったき、そんなんやったんでしょうかねー」
「いや、うちらぁ、薬箱に置き薬あったがで!それやのに・・・」
他にも、ヨモギの葉は止血ができる、とか色々ありますね。
私は小さい頃、よく蕁麻疹が出る子だったのですが、蕁麻疹には山椒がえい!と言われて蕁麻疹が出るたび庭に生えている山椒の葉っぱをかじらされていました。
良薬口に苦し?
今年の春、長男が土佐町中学校へ入学しました。
ぶかぶかの学ランで、自分の体より大きな自転車で登校しく姿は可愛らしく、一時は反抗期を迎えて全然可愛くなくなったと思っていた息子の魅力再発見。
私が中学生だった頃は、部活の選択肢が色々ありました。
バスケ部、卓球部、テニス部、バレー部、剣道部、野球部、吹奏楽部、ESS(英会話クラブ)などなど・・・文芸部なんてのもあった気がします。
今は生徒数も減ってしまったので仕方ないのですが、選択肢が少なく、野球部、男子卓球部、女子バレー部、剣道部、吹奏楽部しかないのです。
今年は23人の新入生のうち13人が吹奏楽部に入部したとか。
長男も吹奏楽部に入部しました。
男の子の親としては、運動部に入ってもらいたいなーなんて期待もありましたが、運動神経の面では私の遺伝子が圧倒的勝利を果たしているので、儚い願いでした。
入部届提出の際、プリントに「本入部は5月からになります」と書いていたので、それまでは中学校生活にゆっくり慣れていくのかなぁ~、と思っていたところがどっこい、さっそく朝練があるー!と朝早くから自転車で通っています。
それでも友達と一緒に行けることが楽しいようです。
中学校生活、エンジョイしてほしいなぁ。
昭和28年10月1日に〝財政力をより強化し「地方団体に国より優先的に多くの仕事」をさせるため、町村単位の規模を人口7000ないし8000にすべきである〟というシャウプ勧告に基づき、町村合併促進法が3カ年の時限立法として施行されました。
簡単に言うと『3年以内に人口が7千人~8千人になるように合併してねー』ということ。
嶺西地域の村(森、地蔵寺、田井、吉野)でも、4ヵ村の助役による(昔は副町長のことを助役と呼んでいました)協議会が開かれ、何度も調査研究会において検討した結果、昭和30年2月22日の協議会でようやく森・地蔵寺・田井各村の合意が成立。
昭和30年2月28日に「合併条件に関する協議書」が三村の間で取り交わされます。
そして昭和30年3月31日、いよいよ「土佐村」の誕生です。
どうして「土佐村」という名称になったと思います?
村長の独断?住民投票?
いいえ、違うのです。
森村、地蔵寺村、田井村は吉野川支流に添った地域にあって、民情風俗・産業・文化とか生活環境がおんなじやし、由緒と愛着の情がすごく深くて共通した村。高知県は昔から土佐の国って言うし、森村 地蔵寺村は明治22年の地方制度の改正の時に、高知の中心的位置を保って「土佐郡」になった。
でも土佐郡の町村は、高知市に併入されたり吾川郡伊野町と合併したりして6村しか残ってない。そしたら、合併してできる新村の名前は、
土佐郡が発展するように
そして
『土佐』の名を永久に代表できるように
「土佐村」にしよう!
そんないきさつがあったらしいです。
素晴らしい。
『土佐』に対する強い思い入れ、強い愛着が感じられます。
ここで、「土佐町が生まれた日」を読んでくださった方は『あれ?』と思ったのではないでしょうか。
土佐町の名称を考える時、『土佐』という名称がつく市町村が多いき、他の名称にしよう!という話が持ち上がっていましたよね。
・・・この時の 強い気持ち・強い愛 はどこへ行ったんじゃい。
全然ど忘れ。
何はともあれこの時「土佐村」が生まれたからこそ「土佐町」があるのですね。
「大渕・古味・井尻・下川・上津川」という地区があります。
今では、20数名しか居住者がいませんが、昭和の中期には700名を超える住民がいました。
今回は、この5地区で、かつて起こった熱い闘いの物語です。
森村・地蔵寺村・田井村の3村が合併して土佐村となったのが昭和30年のこと。
当時、嶺西地域には森村・地蔵寺村・田井村・吉野村の4村あり、その4村が合併について協議していました。
吉野村では「本山町と合併せよ!」という8地区と「田井地区と合併せよ!」という5地区が対立。
この5地区が「大渕・古味・井尻・下川・上津川」です。
結局、決着がつかないまま、吉野村は多数決により本山町と合併しました。
それから約5年間、この5地区が本山町から分町をして、新土佐村へ編入合併する闘いが始まります。
土佐村に編入合併することについて、住民の直接投票に持ち込むための運動が約3年間にわたって展開されました。
その後、運動が実を結び、住民投票が行われます。
住民投票については、時間制限なし(夜間の運動可)、個別訪問自由ということで7日間、昼夜兼行で激烈な運動が展開されました。
その当時、5地区を合わせると754名もの住民がいたため、住民投票の当日はその警備のため100名もの警察官が派遣されたといいます。
住民投票の結果、0.66票の差で、分町反対地区民が勝利する形となりました。
この結果を不服とした分町希望者は、本山町選挙管理委員会、さらには高知県選挙管理委員会に対し再審査を要求。
しかし共に受け入れられず、法廷闘争へと突入します。
訴状をもって高松高等裁判所に提訴すること10数回、審理の末、分町派の5地区はついに勝訴の判決を得ます。
高松高裁は『再審査の結果投票で無効とされたものの中に有効票があり、分町賛成票が1.33票強であった』と判断しました。
これに対し、県選管が最高裁判所に上告しましたが、最高裁が高松高裁の判決を支持し、分町派勝訴の判定が確定しました。
そして、昭和36年、本山町のうち吉野地区西部5地区が土佐村に編入合併することになったのです。
土佐町はかつて、土佐村でした。
昭和41年頃から、町制の実施の希望が村民の間で高まり、昭和44年に町制施行が決定しました。
さて、ここで「新しい町名をどうするでよ?」問題が勃発します。
町制を施行するにあたっては、町制調査研究特別委員会という会が立ち上げられたそうで、新町名もその委員会で検討されました。
その当時、すでに「土佐市、中土佐町、西土佐村、土佐山村、土佐山田町」など、土佐という名称のつく市町村が多かったので、間違わんように他の名称にしたほうがえいんじゃない?という意見が多く、各委員が新町名を提案しました。
「嶺北町」
「水都(みと)町」
「吉田(よしだ)町」
「土北(どほく)町」
「奥土佐(おくとさ)町」
「早明浦町」
「昭和(しょうわ)町」
「登佐(とさ)町」
「美都(みと)町」
「大海(おおうみ)町」
さらにこの中から、「2つだけ選ぶとしたらどれがえい?」と選ばれたのが「嶺北町」と「水都町」。
委員会では決定的な名称は選定せず、この2つの中から住民投票で町名を選ぶことに。
その際、「候補の中にない町名を自由記載してよいか」という意見が出ます。
「えいろう。」「それも住民の意見じゃ。」
そうして行われた住民投票。
蓋を開けてみれば、自由記載の「土佐町」が一番多かったのです。
その結果に、すったもんだ てんやわんや あれやこれや あったという話も聞きますが、やはり住民の大多数が支持した土佐町、ファイナルアンサー。
そして、昭和45年2月20日に『土佐町』が誕生しました。
今となっては「土佐町」以外考えられませんが、もしかしたら全然違う町名になっていたのかもしれませんね。
「万次郎カボチャを土佐町で作り始めたのは、うちの母やと思うがよー」
とおっしゃったのは土佐町役場に勤務している藤原美穂さん。
お母さんは川田慶子さん。
地蔵寺に住んでいる。
息子さんのお嫁さんは熊本出身で、お嫁さんのお父さんは種苗業を営んでいる。
25年程前、息子さんが結婚する時、お嫁さんのお父さんが、作っていた万次郎カボチャの苗を譲ってくれたそう。
最初の年は40数個も収穫があって、それがまた美味しい、収穫時期が遅い(霜が降りるまで大丈夫)ということで評判になって『作ってみたい』という人が増えたらしい。
インターネットで検索してみたら、日本では苗を売っているところが高知に一軒しかないんですって。
種間交雑種のせいか雌花しかつかず、種での販売はされていない。高知県の苗物屋さん(片山種苗)で苗が販売されているとのことで、その苗物店が生みの親だそう。
と、いうことは、熊本で作られていた万次郎カボチャも、高知出身ってこと???
「最近編んでる?」「まぁ、編んでるよ」
ふと耳に入ってきた言葉。
この時期編むといったらマフラーかな?セーターかな?
これは、集落支援員さんの会話。
下瀬戸・黒丸と南川には、土佐町の中心部から車で1時間かかるのだが、それぞれ集落支援員さんがいる。
集落支援員さんは、地域に入って活動し、地域の現状や課題を把握して、どう対応していくかを役場と一緒に考えてくれる頼もしい存在。
そんな集落支援員さんは何を編むのか。
「背蓑(せみの)」だ。
農作業の時に、日よけや雨よけのために背中に背負う「蓑」。
下瀬戸・黒丸、南川地区では以前は背蓑の作り手がたくさんいたけれど、今ではたった一人しか作っていない。
そこで「背みのづくり保存会」というのを作って、その技術を教えてもらっているのだそう。
背蓑の原料は「菅(すげ)」という植物。
「良質な菅は寒い高地で霜が降りたやつなんやけど、最近あんまり取れんでね。低地のでも作れるけど、そういうのは何年かしたら萎れる」
とのこと。
「最近編んでる?」「編んでる編んでるー」
編んでいるのは、まさかの背蓑。
なんだかちょっぴり かっこいい。
町内にあった保育園が統合して1園となり『みつば保育園』が誕生したのが平成18年のこと。
それまでは土佐町には『田井保育所』『はと保育所』『石原保育所』の3園ありました。
私は『はと保育所』に通っていたのですが、当時は子どもも多く、送迎バスがありました。
相川方面と土居地区方面の2便あったと記憶しています。
私が通っていたのはもう30年以上も前。
昭和50年代が終わろうとしている頃です。
土居地区方面への帰りのバスは、上ノ土居→土居→大谷と、順番に子どもを降ろしていきます。
私は土居で下車しているのですが、その日は上ノ土居のお友達に「一緒に下りよう」と誘われました。
上ノ土居は1つ手前のバス停で、上ノ土居で下りても、私の家まで徒歩1分程度でしたので、軽い気持ちで下車しました。
そして家に向かって歩いていると、向こうから怒りの形相の祖母の姿が・・・。
いつもバス停まで迎えに来ていた祖母は、私がバスから降りてこないので、
運転手さんに「これこれこういう子が乗ってなかったか」と聞いたところ
「上ノ土居で降りましたよ」と言われたらしく、探しにきたのです。
「勝手に他の所で降りたらいかん!!」と叱られました。
その当時は「別にえいやんか~」と思っていましたが、今思うと、心配しただろうなぁ・・・。
あの時の道の向こうからやってくる祖母の姿は、今でもありありと思い出せます。
これぞ土佐弁!という土佐弁を使うことが減ったと思う今日この頃ですが、最近耳にした土佐弁を紹介します。
「へらこい」・・・ズルい
「しのべる」・・・しまう、片付ける
「めっそう」・・・さほど、それほど
使い方としては「あいつはへらこい」「これ、タンスにしのべちょって」「めっそう残ってない」とか、こんな感じ。
自分より若いおねーちゃんの口から「めっそう」なんていう言葉が飛び出すと面食らいます(笑)
あと初耳だったのが「てんくろう」。
「あいつは『てんくろう』やき」
使った人にどういう意味か聞いたら「俺の親父みたいなやつのことよ!」とのこと。
全然わからなかったので調べてみたら「知恵が回る、頭の回転が速い」という意味だけれど
どちらかというと「悪知恵が働く」という意味合いが強いみたい。
それから、他県の人に説明しづらいけど、使い勝手がいいのが『のうが悪い』。
よく『脳が悪い=頭が悪い』っていうこと?と誤解されるのですが、そうではない。
洋服の着心地が悪かったら『のうが悪い』
物の使い勝手が悪かったら『のうが悪い』
他にも色々面白い土佐弁があるぜよ~。