土佐町地蔵寺地区に住んでいる筒井重子さん、現在93歳。
重子さんは土佐町栗木地区出身。終戦の2年ほど前、当時16歳だった重子さんは志願して広島県呉市の軍需工場へ赴きました。きっかけは高知県から届いた軍需工場で働く人を募集する案内。父親に行きなさいと言われたこともあり、「行かないかん」と思った重子さんは手を挙げました。この時、高知県からは重子さんの他に30人ほど軍需工場へ向かったそうです。
この写真は、軍需工場の寄宿舎で一緒だった友人たちとの1枚。真ん中が重子さん。軍需工場の制服を着ています。寄宿舎から歩いて30分ほどの場所にあった写真館で撮影したそうです。
軍需工場で重子さんは特攻機や魚雷艇の組み立てを担っていました。夜、空襲警報が聞こえるたび山の防空壕へ避難。入口は一つ、奥に向かって長く掘られた防空壕の中に100人以上の人が逃げ込んだそう。入口を閉め、息を潜めていると酸素が薄くなって苦しくなってくる。たまらず外へ飛び出して、土橋の下へ隠れた時、降り注ぐように落ちてきた焼夷弾が橋を貫通したこともあったそうです。一面焼け野原にする焼夷弾。毎日「もう今日が最後かなあ」と思っていたといいます。
米軍が沖縄へ上陸した際、友人と「戦争は負けるわね」と話していた時のこと。それを耳にした将校が「負けるもんか!戦争は勝つんだ!お前はどこの部隊の誰だ!!」と激怒。他の将校がかばってくれたこともあったそう。
重子さんのご主人である筒井政利さんも、そばでこの話を聞いていました。政利さんも海軍の兵隊として従軍しました。
「わしらは難儀しゆうぜよ」
ふとつぶやいたその言葉に、もう二度と戦争を繰り返してはならぬという思いを新たにしました。