白髪神社は土佐町宮古野地区にあり、周りが田んぼの中、その場所だけ木に囲まれるようにして静かに建っています。
その白髪神社のお話です。
白髪神社信仰は、高知県下でも吉野川上流にのみみられるものである。
土佐町宮古野、大川村大藪、本川村(現在いの町)桑瀬、いの町長沢、いの町越裏門、いの町寺川、本山町沢柿内で
「産土神」として鎮座している。
越裏門、寺川あたりでは「本川女に森男」という俚諺がある。
これは本川郷1)かつて本川村から東隣の大川村を含む一帯を本川郷と呼んだの美女、森郷2)現在の土佐町の美男子という意である。
本川郷にまだ白髪神社を勧請3)神仏の分霊を他の場所に移しまつることしていないころの話である。
土佐町宮古野白髪神社の祭りには、老若男女の氏子たちが本川郷からもはるばる何時間も歩いて出掛けていた。
ところが本川女は祭りの準備やら、籠り人の食事の煮炊きなどばかりさせられ、
森の男たちは上座に威儀を正していい格好で座ってばかりいる。
そこで本川女も「時にはわしらも上座に座らせよ」と言うと、
森男は「そんな伊賀ばき(昔の田舎びた服装)の者を座らせるわけにはいかぬ」という。
さすがの本川美女もこれには腹を立て、
竃(かまど)の石を取って「氏神様もついてごさっしゃれ」と言って越裏門、寺川に帰ってしまった。
その竃の石を祀り始めたのがこのあたりの白髪神社であるという。
ところが持ってきた石に、森の白髪神社の御神霊が本当に憑いてきていて、
森の方では神様がお留守になったと大騒ぎになった。
そこで森男から本川女に詫び状が入って、本川から神霊がお帰りになったという。
森から石を奪ってきた日が戌亥(いぬい)(=乾(いぬい))であったから、越裏門は十一月戌、寺川は亥の日を祭日としたとか、
白髪様の祭りを乾祭りというのだと言い伝えて、戌亥信仰4)戌亥は北西の方位を指す。怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角であるとして忌むべき方角としている。この方位を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌するとされ、神棚や神社を設けて信仰されていたが見られる。
土佐町史839p
References
1. | ↑ | かつて本川村から東隣の大川村を含む一帯を本川郷と呼んだ |
2. | ↑ | 現在の土佐町 |
3. | ↑ | 神仏の分霊を他の場所に移しまつること |
4. | ↑ | 戌亥は北西の方位を指す。怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角であるとして忌むべき方角としている。この方位を鎮めると、家運が永久に栄え、子孫が繁昌するとされ、神棚や神社を設けて信仰されていた |
山下進
本山町沢柿内ではなく、本山町沢ヶ内ですよ。
鳥山百合子
山下さま、コメントありがとうございます。町史では「本山町沢柿内」になっているため、そのまま記述しています。
kk
澤柿内は沢ヶ内の古名です。そもそもはここが白髪明神が最初に祀られた地だと言われています。後に交通の便が悪いということで白髪村(現 宮古野)へ遷座されました。
鳥山百合子
そうなんですね、教えてくださってありがとうございます。自分が暮らす地のことを知るのは面白いですね。
とおりすがり
白髪神社の由緒によると「森氏が故地の近江より氏神を勧請した」とありますが、最初期に白髪神が祀られた形跡があるのは長徳寺(現在の若一王子社付近)の鎮守であった「白我社」であり、森氏が土佐へ来る数百年前なので、そもそも白髪山の神であったものに、森氏による(統治者としての)箔をつけるための物語が付け加えられたものではないかと思います。この手の習合はよくあることなので。そして次に古いのが奥白髪冬ノ瀬にある小さな社で、白髪神の神像や神鏡を収めた羽釜が安置されていたことから江戸時代以前は羽釜大明神と呼ばれておりました。その後「参詣難儀」との理由で田井そして白髪村(現宮古野)へ遷座され、沢ケ内にも分霊されました。ちなみにこの沢ケ内白髪社の別当(江戸時代以前の神仏習合の時代に神社を管轄していた寺院)が今の中島観音堂こと普門院観音寺です。そして本宮である宮古野白髪社の別当は現在南川に現存する百万遍で有名な大谷寺です。白髪信仰は嶺北固有の信仰とも言えるもので、上記のように地域全体の歴史と深く関わりのある話がゴロゴロ出てきますので、興味があれば是非調べてみてください。長文失礼しましたm(_ _)m
とさちょうものがたり
興味深いコメントありがとうございます。なるほどなるほど。(統治者としての)箔をつけるための物語が付け加えられたりということは、世界中でありそうなことですね。そして文献も少ない時代のことは、本当の意味での事実はもう手が届かない、想像するしかないものですね。そういったことも含めて、長い年月をかけて人の心が作り上げてきた習俗風習は奥深く興味が尽きません。また教えてくださいませ。
ひさっちゃん
あれから調べました。白我社に関する情報は長徳寺文書以外に得られませんでしたが、先日、宮古野の白髪神社第41代目の宮元さんに古文書を見せていただいたところによると白髪神社の遷座時、初代宮元左近将監は天慶5年(西暦946年)の方であり長徳寺建立が久安5年(西暦1149)だとすると白我社の方が古いとは言えないと思います。森某が近江の白髪大明神の天啓を受けた話はフィクションかも知れませんが。^;
とさちょうものがたり
ひさっちゃんさん、コメントありがとうございます。
宮元さんとお話ができたのですね。
古い記録や言い伝えなどがあることが、まずとても貴重なことだなと感じます。詳しい方に話を聞いたり、文献を調べたり、さまざまな角度から歴史を照らすことは面白いですね。色々教えてくださって、ありがとうございます。
ひさっちゃん
鳥山さん
スマホ画面を見やすくして下さりありがとうございます♪^
とさちょうものがたり
いえいえー。こちらこそ、伝えてくださってありがとうございました。
ひさっちゃん
昨日、古老二人に同行して森某が天啓を得て祀ったとされる羽釜大明神の祠に参拝しました。ガレ場は数ヶ所ありましたがかなり近くまで車で行けました。祠まで徒歩で数十メートルほどでしたが、これがまた最大の難所でありロープを伝って行かないと落ちたらタダでは済まない、それが遷宮の理由なのだと思いました。祠は巨大な蛇紋岩が折り重なったところにあり、伝説どおり近くに庵の跡、杉林がありました。^
とさちょうものがたり
コメントありがとうございます。
祠までの道のり、かなりの難所のようで大変でしたね。昔の人の苦労が偲ばれますね。
ひさっちゃん
はじめまして とおりすがりさん
白髪山の名前の由来を探していてここに辿り着きました。近江高島市の森某が白髪神を嶺北に勧請する前から長徳寺の鎮守として白我社にあった、というのを初めて聞きました。本山町史にも土佐町史にもネットにもないこの「白我」はどこに行けば見つかるのでしょうか?
とさちょうものがたり
ひさっちゃんさま
コメントありがとうございます。
「白我」について知りたいとのこと、申し訳ないのですがこちらではわかりません。お役に立てずすみません。