令和2年12月16日午前9時9分。
おぎゃあと小さく泣いて、女の子が生まれた。出産予定日より10日遅れての誕生だった。
予定日より数日前、出産立ち会いのため千葉県にある奥さんの実家に到着していた僕は、予約していたフライトを二回延期した。こちらにいる間、子どもたちは小学校や保育園を休まねばならなかったし、猫や鶏の世話など留守を頼んでいる友人への負担も気になっていた。しかし「家族で新しいいのちを迎える」のは、僕たちにとって、とても大切なことと考えていたから、彼らのサポートに甘えた。そのときを待っている日々に、一日の長い時間を子どもたちと過ごすという貴重な日々を送ることができるのはこんなときしかないことだった。
出産場所は、これまでと同じ奥さんの実家。
これまでと違うのは、助産師さんにお世話になっていることだ。
過去四回の出産は家族と親類だけで行っていたが、今回検診と出産はご縁のあった助産師さんに頼んでいた。自分の年齢と体力によるリスクを考えた母ちゃんの選択だった。
月に一回ある検診のために高知から往復する負担を考えて、妊娠六ヶ月ごろから奥さんと子どもたちは千葉に移っていた。僕と小学校に通う長男は高知に残り、機会をみつけては千葉に様子を見に行っていた。
出産まで間近という日、僕らが再び千葉入りし、久しぶりに家族が揃った。
予定日を迎えたが出産の兆候はなく、一日、また一日と過ぎていった。周りは「焦らず、赤ちゃんと母ちゃんのタイミングで産まれてくればいいよ」と言うものの、ある日数を超えてしまうと病院で出産となる。このコロナ禍では院内立会いはできず、産後も入院中は面会できない。赤ちゃんを誕生の瞬間から迎えたかった子どもたちは落胆するだろう。叶うならその前に生まれてほしい。そんな皆の願いが通じたのか、この一二日が勝負!という大潮の未明に陣痛がはじまり、助産師さんに来てもらった。テキパキと無駄なく動き判断する彼女は頼もしく、まさに助産のプロといった感じだった。
陣痛が進むと場が緊迫し、不安そうな子どもたちの相手をしながら、実は同じ心境な僕の気持ちも落ち付けようとしてる。陣痛の最後のピーク、つまり生まれる瞬間、僕はどうぞ無事で産ませてくださいと神様にじっと祈るしかなかった。しばらくして赤ん坊の声が聞こえると、今回も母子ともに元気で出産が済んだことが分かり、汗ばんだ手のひらをズボンで拭いた。お祝いムードに、僕は数分前に懇願した神様へのお礼も忘れてる。振り返れば、毎回そんな想いで出産の場に望んでいたと思う。助産師さんとは正反対の頼りない父ちゃんだが、正直な気持ちだ。
赤ん坊の名前は、胎児名をそのままに「たね」とした。
数年前、何かの機会で、土佐町に「種子(たねこ)」さんという方がいることを知って、奥さんと「素敵な名前だね」と話したことがあった。のちに、その方は友人の親類ということが判明し、一方的ではあるけれど、ご縁を感じた特別な名だ。
生後一ヶ月を待って、高知に戻ることになった。車とフェリーを利用して、我が家に帰る。家族全員が笹のいえに居るのは、実に半年振りのことだった。
皆さん、渡貫たねをどうぞ宜しくお願いします。
写真撮影:中島安海