南川地区にある夫婦杉へ行った。
小雨が降る中、車でくねくねとした細い山道を進んでいくと、瀬戸川渓谷から流れて来た水が山道に伴走するように流れる場所に出る。
杉へ向かう時、つり橋を渡る。
下を流れる川には大きな岩がごろごろとあって、岩と岩の間をかき分けるように水が流れている。
ごうー、ごうー。
耳元で水の音がうなる。
「すごいですね…。」
そうつぶやいて、橋の上で西村さんはしばらくその風景を眺めていた。
夫婦杉は隣り合うように立っていて、木の表皮は苔蒸して深緑色。
見上げると、この木はずっとここでこの風景を見守ってきたのだということが伝わってくる。
何年も何十年も、もしかしたら何百年も前から。
そばにある小さなお宮には、ここへ来た人が一言書けるノートが置いてあり、ページを開くと県内外から来た人たちの名前や言葉がたくさん書かれていた。
西村さんは言っていた。
「土佐町は、田舎は田舎なんだろうけど自分が生まれ育った田舎とは違う。『田舎』ってひとくくりにされるけど それぞれ違う顔ですよね。自分の中では、生まれ育った北海道がスタンダード。
土佐町の家々を見ても“おばあちゃんちに帰ってきた”感じにはならないのは、自分にとっての原風景じゃないから。
土佐町は日本昔話みたいな日本の田舎の原型のようで、ちょっと海外に来ている感覚がある。『木があって川があって緑が多くて』とアイテムは北海道と変わらないのに、気持ちが違う。」
西村さんの中にある原風景と土佐町の風景は違ったのかもしれないけれど、それぞれの風景に流れているものの中にどこか重なるところがあったからこそ「土佐町のうた」がうまれたのだと思う。
人と人が出会うわけは きっと誰かの喜びのこたえ
今日はあなたの誕生日 何にもしらないあなたのこと
出会えたわけにそっとうなずく 今日はあなたの誕生日
(誕生日)
「出会えたわけにそっとうなずく」。
大切な人に会うために生まれてきたんやなあと思う。
みんな誰かに会うために生まれて来るのかもしれないなと思う。
西村さんは言った。
「僕はもともと北海道出身で、人生の中で土佐町に来るなんて思ってなかった。歌ってなかったら多分一生、土佐町という名前を知らなかった。でもこうやってみなさんと対面していて、縁って不思議だなあと思って。
どうして土佐町で歌うことになったんだろうとさかのぼると、生まれたところがスタート。
生まれて、保育園や幼稚園を経て、小学校、中学校、高校を経て、大学行ったり就職したりして、その中でいろんな人に会って、なんやかんやあって、みなさんもここにいる。
もともと土佐町の人もいるでしょうし、土佐町に移り住んできた人もいるでしょうし、その人生の流れのどこかが変わっていたら、どこかで誰かに会っていなかったら、今この場にいなかったかもしれない。
そう考えると奇跡的な確率の空間に僕らはいる。
ひとりひとりの人には必ずお父さんお母さんがいて、僕らが生まれて、それがずっとずーっとご先祖様と言われるずっとその代まで続いて、ここにいる。そう考えたら不思議だなあと思って。」
同じだ。
私も中学生の頃から同じことを考えていた。
お父さんとお母さんがいなかったら生まれていない。
おじいちゃんとおばあちゃんがいなかったらお父さんとお母さんも生まれていない。
それがずっとずっと前から続く。誰か一人でもいなかったら、私はいなかった。それは全ての人にとっても同じ。
会ったこともないご先祖様たちが、今の私たちにつながっている。
そんな気が遠くなるような実感をずっと心のどこかに持っていた。
西村さんもその実感を持っているだろうことが、何だかとてもうれしかった。
100年たったら この場所に きっときれいな花が咲く
あなたと過ごした思い出を 一粒ここにうめたんだ
(100年公園)
「100年公園」。
今年の夏、この曲を初めて聞いた。
心の深いところにあるずっと大切にしてきた何かに触れられた気がして、涙がこぼれた。
その歌詞は「この町に確かにある何か」とも、どこか重なる気がした。
100年たったら、私も、大切な人たちもこの世にはもういない。
人間はいつか死ぬことがわかっているのに生きようとして、何かの種を蒔こうとする。
ライブ中、西村さんは語りかけるように言った。
「100年前、ここに何があったんだろう。さかのぼると、人が誰もいない山の中だったでしょうし、文化が違う人が住んでいたかもしれない。
ひと昔前は車を使う代わりに歩き、メールではなく手紙だったり、暮らしの要素も違っていた。
暮らしで使うものは違うけど、多分、人の感情は変わらない。泣きたい時は涙が出るし、楽しい時には笑うし、好きな人もできる。根本的なところをずっと同じ土地で、何年も、何代もやってきたんだと考えると、今のこの時代は僕らが任されているような感じなのかなと思って。
時代が変わっても、人の根本的ないとなみが続いていったらいいなと思う。」
きっと人間は、昔も今もこれからもそんなに変わらなくて、根本的ないとなみを今も昔も繰り返し、きっとこれからもそうしていくのだろう。
「泣きたい時は涙が出るし、楽しい時には笑うし、好きな人もできる」し、人間は本当にたくさんの感情を作り出して、時には一人抱え込んで、時にはどーんと爆発させたりする。
きっとその感情は一人じゃ生まれないもので、相手がいて初めて生まれるものなのだと思う。
相手がいるからうれしいときは伝えたくなるし、好きだと思ったらぎゅっと抱きしめたくなる。
いろんなことをああでもないこうでもないと考えたり、どうしたらいいかわからなかったり、怒鳴りたくもなるし、悲しかったら泣きたくもなるし切なくなる。
そういう感情をいつの時代も人は繰り返してきたのだろうか。
世界は一体どれだけの感情で埋め尽くされているのだろうか。