ライブ会場である平石小学校は、平成16年度に閉校した。
地元の木を使って建てられていて、卒業した子どもたちが描いた絵や写真、平石地区のジオラマが飾られ、放送室には子どもたちが流していただろう音楽のカセットテープが置いてあった。
ここで多くの子どもたちが過ごしたこと、「学校」は地域の人たちにとって特別な場所なのだということがしみじみと伝わってきた。
ライブ当日、平石小学校の職員室で西村さんは「土佐町のうた」を作っていた。
西村さんがここにいるということがとても不思議で信じられないような気持ちがした。
小学校の台所で準備をしながら、もしかして夢なんじゃないかと何度も思ったけれど、時折聞こえて来るギターの音と歌声が「これは現実なんですよ」と教えてくれた。
この日は朝から雨が降っていた。明日は台風が高知県を直撃するという。
そんな天気の中、お客さまは足を運んでくれるのだろうか…。
教室のカーテンを全部開け、傘をさして校庭から校舎を眺める。
雨粒で窓からのあかりがぼやけて見える。
辺りは真っ暗で、平石小学校だけに暖かなあかりが灯っていた。
傘をさした人たちがゆっくりとあかりの方へ向かって歩いてくる。
一人のおばあちゃんが傘をさしてやってきた。
「雨の中ありがとうございます。」と声をかけると、
「もう少しゆっくり来てもよかったんやけど、雨やし、歩いていくんやからとちょっと早めに来たんよ。」と優しく笑った。
この雨の中、外へ出ることだけでも大変なことだったろうな…と思うと、足を運んでくれたことがとてもありがたかった。
開演時間が近くにつれ、次から次へとお客様がやって来て、あっという間に客席は満席に。
「平石地区は全部で45戸あるんやけど、各戸からひとりは来てくれていたんやないかな。」
平石の人がそう教えてくれた。
ライブ開始直前に「土佐町のうた」は完成した。
「今回『土佐町の歌をつくってくれ』って結構あっさり言われて…。あの…、曲を作るって大変なんですよ…。僕も「いいですよ」って言っちゃったんですけど、それがなかなかのプレッシャーで。
初めて来させてもらった所ですから、実際こういうところなのかって自分の中で納得して、こういう人たちがいるんだと思ってから曲をかきたかった。まっさらな状態で土佐町に来て、いろんなところに連れて行ってもらって、ああ、こういう川があるのか…、こういう魚が取れるんだな…、棚田も…。いろんなところを見せてもらった。
そうやってあたたかい時間を過ごさせていただいた結果、今日の今日まで全く曲作りをしてなかった。
ごはんをもらっては『美味しいなあ、よかったなあ、今日は』と思って、一日が終わり…。今日行った場所も『すごく綺麗だったなあ、よかったなあ』と思って寝て一日が終わり…。
さっきまで曲ができなくてですね……。でも、なんとか、作ってみました。」
本当に大変だったのだと思う。
自分が書いた詩をこの地の人が聴いて、そんなんじゃないと思うことがあってはいけないと思って、西村さんは色々考えていたそうだ。
その人の声や目の感じ、しぐさやその人の姿そのもので、その人のもっているものは伝わってくるものだなと感じる。
西村さんの姿から伝わってくるのは、出会った人や出会った場所に誠実であろうとする西村さんそのものだった。
「土佐町のうた」
風が吹いては花が咲く 雨が降っては穂が実る
水は流れてどこへゆく 人の暮らしにたどりつく
よいしょよいしょと腰をかがめ
父が植えた小さな苗が 君やあなたになったのでしょう
嶺北になったのでしょう
とても小さなぬくもりが ひとつの屋根で暮らしてる
いつか大きくなったなら きっと君も気づくのだろう
ヨイショヨイショと腰をかがめ
母が蒔いた小さな種が 君やあなたになるのでしょう
土佐町に咲くのでしょう
ヨイショヨイショと息をして
ここで暮らす君やあなたが 嶺北の山となり川となる
土佐町のものがたり
「ヨイショヨイショ」という言葉は、棚田の美しい高須地区で「土佐芝刈り唄」(ボタンを押すと自動で歌が流れる)を聴いてから、西村さんの頭から離れなくなってしまったのだそうだ(笑)
西村さんは芝刈り歌を聴きながら「社会の教科書でしか見たことがなかった」という棚田を静かに見つめていた。
ずっと昔からここにある山や空、この地に吹いている風、「よいしょよいしょ」と土を耕し、種を蒔いて来た人たちの姿がその風景の中に見えたのではないかと思う。
今ここにある風景は、この町の人たちがずっと大切にしてきた「土佐町のものがたり」。
私たちは、今ここにある「ものがたり」の中にいる。
先人たちがつくってきたものがたりに重ねてゆくように、それぞれの人がそれぞれの場所で、自分のものがたりをこれからも綴っていくのだと思う。
西村さんが「土佐町のうた」を歌い終えるとたくさんの拍手が起きた。
温かい拍手だった。
歌を聴いて涙がでた、とたくさんの人が言っていた。
来てくれたお客さまたちのそれぞれの心の中に、この地で暮らす人だからこそ共有できる何かがあったのだと思う。
多分それはこの地で暮らしている人だけではなく、日本中、もしかしたら世界中の人が共感できるような「何か」なのかもしれないと私は思う。
ライブの後、『お金の箱』を受け取った。
『お金の箱』というのは平石地区のお母さんが用意してくれたもので、平石地区の人からの気持ちとしてお金を集めてくれたのだ。
このライブはチケットを販売したお金だけで開催し、平石小学校でやるということで、平石地区の人たちは無料で招待していた。
平石地区のお母さんたちが集まって「無料って言うけどチケット代だけでライブを開くらしいよ。西村さんは歌だけで食べている子らしい。大丈夫なんやろうか…。」と話し、ライブ当日、平石地区の人たちへ箱を回すことにしたという。
「これ、よかったら…。みんなからの気持ちやけ。」
中には1000円札が何枚も入っていた。
その気持ちが何よりも嬉しく、ありがたかった。西村さんにそのことを伝えるととても驚き、そして本当に喜んでいた。
後日、平石地区の人が話してくれたことは思いがけないことだった。
「多分、自分も含めて平石の人たちはお互いに『あえて言わなくても、自分がこうやって思ってることを相手もちゃんと分かってくれているやろう』と思ってきたと思う。小さな地域だからこそ、言わなくてもわかるという安心感のようなものがあった。
でも今回のライブのことで「分かってるだろうことをあえて伝える」ことも必要なんやろうな、と思った。
多分平石の人たちは「平石小学校でライブをしたということを『平石でやってよかった』ってみんな思ってくれてるでね?」
と思ってる。確認するわけでもなく暗黙の了解で。でも、西村さんや拓ちゃん(石川)や百合子さんが『平石でやらせてもらえて本当に良かった』って言ってくれたことをあえてちゃんと伝えたいと思った。わかっているだろうことをちゃんと言葉にして伝える、っていうことが大事なんやろうなと思った。」
西村さんは歌だけではなく、平石地区という場所に何か大切なことを届けてくれた。
西村さんは後日、こんなメールをくれた。
「素敵な時間を過ごさせてもらったので、土佐町で過ごした時間がすでに恋しいです。別れた時が第2回目のスタートと思って、また次回、土佐町でみなさんに会えるのを楽しみにしています」。