まあけんどね、人生というものはね、いろいろありましたぞね。わたしたちの人生は。
18歳の時から2年間、挺身隊で、長崎の川棚(かわたな)海軍工廠へ行っとったが。
大川村から6名呼び出されて、6人一緒に行った。男の人は徴用で、女は挺身隊。
私は、魚雷よね、後方魚雷を組み立てたりね。魚雷のいろいろな部品を組み立てる。
その工場で組み立てて仕上がったものは、試験場で試験しよりました。
大きな建物の中からその航空魚雷を飛行機に積んでいって、落とすがですよね。
試験に行ったこともあります。
敵の軍艦を目指して落とすような兵器でした。
仕上げ工場の最後のはしの方で、航空魚雷の心臓部を私は受け持ってね。それが私の仕事。
航空魚雷の心臓部の「しんどき」という、人間でいうと心臓のところ。
原子爆弾も見たしね、この目で。
私がいたのは長崎の市内でなかったですけどね、長崎の原爆が落ちた時は、この目ではっきり見てね。
「空襲警報ーー!総員退避ーー!!」と言ってね、みんな防空壕に入ったの。
私がおった工場は海岸ぶちで、離れたところに防空壕があったき、防空壕へ入ることができなくって、原子爆弾が見えた。
まっ黄色い、黄色い、黄色い玉が一番はじめですわね、火の玉。
そして黄色からね、赤い、赤い火の玉になる。
それからきのこ雲、もくもくもく…。
音がしました。むろんね。
一瞬。
一瞬のこと。
空襲にもおうたぞね、毎日、ほんとね。
爆弾が落ちたところをあくる日に見に行ったりしました。すごい穴になってました。
あっちもこっちも、馬がいっぱい死んでました。馬がおりましたね、あの時。
川棚はちょっと山でしたきね、兵隊さんが馬を飼ってたんじゃないでしょうかね。
馬が何頭も爆弾の破片でやられてね。
(地元に)帰ってくるのは帰ってきたんですけど、原爆症ではないと思うけど、みんな年がいってほとんどの人たちが亡くなってね。残っているのは私ぐらい。
魚雷をつくっている時、もうそれこそ18歳、19歳くらいの娘ですきね、まだほんとね、こどものように思ったけどね。
いろいろあったんです。今考えてみたらね。