谷種子さん
谷種子さん。現在88歳。
1998年(平成10)から23年間、稲村ダム周辺とその道沿い、そして原石山に木を植え続けている。
今までに植えられた木は桜、モミジ、クヌギ、ブナ、ヤマボウシ、ヤマツツジ、イロハモミジなど広葉樹25種類。その本数は6,152本にのぼり、植樹した土地の面積は6ヘクタール(60,000㎡)。いつ、どこに、何を植えたのか、種子さんの頭の中の地図に全て記憶されているという。
4月、稲村ダム周辺と原石山では桃色の桜があちこちに咲き誇る。種子さんが今までに植えた桜の本数は、約2,000本。種類によって少しずつ開花時期がずれるため、4月から5月まで桜が咲き続ける。
この辺りは標高が高いため、町中に咲く桜とは開花時期が1ヶ月ほどずれる。「高知では3回花見が楽しめる。3月末に海岸沿いで、4月に早明浦ダム周辺で、そして5月は稲村ダム周辺で」と言われている。
「これは福禄寿」「こっちは永源寺」「普賢像」「御殿場桜」…。
慈しむように桜を見つめながら、種子さんが教えてくれる桜の名前の数々。桜にはこんなにも種類があるのかと驚かされる。
「木の一本一本が、かわいい」
種子さんは、今年の桜を見ながらそう言っていた。
種子さんという人
土佐町で生まれ育った種子さんは、長年、高知県庁の職員として働いた。
1970年代(昭和50年代)頃、女性が管理職に就くことがまだ珍しかった時代、種子さんは数少ない女性の管理職として仕事をしていた。県庁に電話をかけてきた男性が「責任者を出せ!」と言うので代わると、「女ではいかん!男を出せ!」と怒鳴られたこともあったという。
それでも、「仕事は本当に楽しかった。やりがいがあった」と種子さんは話す。
戦没者の遺族年金受給の手続きも担当した。すでに戦後30年が経過し、受給する人も高齢化。受給するための手続きは複雑で、高齢者にはとても難しいことだった。種子さんは申請者の様子をみて、サポートが必要だと思われる人には申請に必要な資料を集め、手続きを手伝った。そうすることで遺族年金の受給が初めて可能になった人も多かったという。その人たちが「あなたに足を向けて寝られない」と言葉をかけてくれ、喜んでくれた。種子さんは、そのことがとても嬉しかったという。
1992年(平成4)に県庁を退職。その後勤めた女性の保護施設は、家庭内暴力などから逃れてきた女性を保護して話を聞き、その人にとっての自立を導く職場だった。3年間という約束で働き始めたが、施設で保護した女性を探し、暴力団が乗り込んでくるようなこともあるためか、後任がなかなか見つからなかった。最終的に、種子さんはその施設で9年間働いた。
働きながらいつも心に浮かんだのは、山で働く両親の背中だった。田畑を耕し、炭焼き小屋で炭を焼く両親。特に母親は朝から晩まで「田畑の世話、雨が降れば蓑笠で出かけて水路の掃除、食事作り。とにかくいつも働いていた」。
その母親の背中を見ていたから、自分の仕事のしんどさなんてどうってことない。そう思えたという。
種子さんが身をもって味わってきたこれらの経験が、種子さんという人の揺るがない軸をつくったように思えてならない。
ふるさとの森を育む会、設立
女性の保護施設に在職中、種子さんはたびたび稲村ダムを訪れては「ここに花の山があったら、どんなに素晴らしいだろう」と思っていたそうだ。
稲村ダムは瀬戸川の源流域にあり、瀬戸川は高知市の水源地でもある。瀬戸川の水を毎秒4トン土佐町の平石川へ落とし、そこから高知市の鏡ダムへ毎秒6トンの水を送る。
「土佐町は水源地。自分が生まれ育った土佐町の山を、少しでも保水力のある、豊かな森にしたい」
ずっとそう考えていたという。
1998年(平成10)、種子さんは、評議員を務めていた「テレビ高知花の基金」にその考えを持ちかけた。「テレビ高知花の基金」は、植物学の父・牧野富太郎が名付けた「仙台屋桜」の苗木を配布する活動をしていた。
「テレビ高知花の基金」は種子さんの話を受け、桜の苗木を贈ることを決めた。
地権者である営林署(現在は森林管理署)と四国電力から植樹の許可を得て、種子さんは「ふるさとの森を育む会」を設立。
当初、稲村ダム周辺とダムへ向かう道沿いに木を植える予定だったが、設立の際に営林署から「原石山にも植えてほしい」という依頼があった。そのとき、種子さんは迷うことなく「やりましょう」と答えたそうだ。
迷いないその一言が、後々まで語り継がれる「一筋縄ではいかない」出来事につながっていくのだが、今となっては種子さんにとって「そんなこともあったわね」という笑い話になっている。
1999年(平成11)3月、種子さんは多くの人の協力を得て、稲村ダム周辺と原石山に、仙台屋桜など約500本の桜の植樹を行った。これが、その後続いていく植樹の第一回目である。
「木を植える人 その3」に続く