種子さん、土を運ぶ
植樹を開始してから数年間は、ホームセンターで買った土を運び、木を植えていたという。その現状を聞いた知人の和田富次さんが、土佐町溜井地区にある自分の山の土を分けてくれることになった。
富次さんは自分の山をユンボで掘り、約1時間半かかる稲村ダム周辺まで、トラック何台分にもなる土を運んでくれた。
現地で土を土嚢袋に詰め替え、斜面も進むことができるキャタピラで運び、木を植えた。
土を運ぶ。木を植える。
土を運ぶ。木を植える。
それを繰り返した。
山で生き返る
2000年(平成12)には山桜やカエデ、クヌギを453本。次の年には桜を94本。毎年広葉樹を植え続け、今までに植えた木の数は、合計6,152本。その本数の木を植えるため、その本数分の土を運ぶ。聞いただけでも気が遠くなるような、果てしない作業量だ。
木を植える穴が掘れないと分かった時、やめようと思わなかったのだろうか?
種子さんに聞いてみた。
「営林署の人に“やります”と言った後に、“やっぱりやめます”とは言いにくかったのでしょう?」
種子さんは、間髪入れずに言った。
「言いにくかったなんて!やめようと思わなかったのよ。“これは大変だ!”とは思ったけど」
そう言いながら、からりと笑った。
そしてもう一度、はっきりと言った。
「やめようとは思いませんでした」
「楽しかったですから!山に来て仕事するのが。気持ちが晴々とするから。いわば、“生き返る”んじゃないです?」
そう言い切ることができる姿に、種子さんの強さを見た。
この話をするときの種子さんの声は弾み、一オクターブ高くなる。
「一筋縄ではいかない」出来事は、時間とともに笑い話になっていた。「一筋縄ではいかなかった」出来事として、今は懐かしく、かけがえのない思い出になっている。
楽しくなかったら続けられない
「ふるさとの森を育む会」には、木を植えるという目的を共有できる多くの友人たちがいた。種子さんは、同じ志を持った人と仕事をすること自体が楽しかったのだ。一緒に走る人が隣にいれば、たとえどんなに大変なことがあったとしても、いつか振り返ったとき、楽しかったこととして思い返すことができるのだと思う。
1999年(平成11)に植樹を始めてから2020年(令和2)まで、延べ4,087名もの人が手伝ってくれたという。
ダムまでの道沿いに植樹するときには、同級生である建設会社の社長が、仕事の少ない夏場にユンボを持ち込み、ダンプトラックに踏み固められた土を掘り返してくれた。
「たくさんの人の協力をいただいていたからできた。本当に感謝しています」
せっかく植えた木を猪に掘り返されても、強風で木が倒れても、木を植え続けた。
「大変なこともあったけど、楽しかった。楽しくなかったら続けられないですよ」
種子さんは、そう話す。
「木を植える人 その5」に続く