「高知の空襲」 平和資料館・草の家
「焼夷弾は一面を焼き尽くす」
土佐町に住む現在93歳の筒井重子さんが話していた言葉です。重子さんは16歳の時、志願して広島県呉市の軍需工場へ。港があり、工場が立ち並ぶ呉で何度も空襲に遭い「アメリカ軍が落とした焼夷弾で、あたり一面が焼け野原になっていた」と話してくれました。
この本「高知の空襲」を読んで、昭和20年7月4日、高知市への大空襲でも大量の焼夷弾が使われたことを知りました。
昭和20年7月4日、午前1時52分から1時間に渡って、125機のB29が高知市の中心街を爆撃。アメリカ軍は高知市の大橋通を照準点と定め、中心街のほとんどを焼き尽くしました。このとき使われたのが「M69-6ポンド油脂(ナパーム)焼夷弾」18万発、「500ポンド焼夷爆弾」1251発。
焼夷弾は、攻撃目標を焼き払うため、ガソリンなど燃焼力の強い物質を詰め込んだ爆弾のことをいいます。B29から落とされた1発の親弾が上空300メートル付近で開き、中に入っている38個の「M69焼夷弾」がばら撒かれるような仕組みになっています。
「M69焼夷弾」は、米軍が日本の木造家屋を効率よく焼き払うために開発した爆弾で、屋根を突き破って天井裏で横倒しになり、そこで火を噴くように設計されていた。木と紙でできた日本家屋の構造を徹底的に研究し、「消せない火災」を起こすことを狙った兵器だったといいます。この日の空襲で、木と紙でできていた高知市の街は「真っ赤な火災の大海」に変わり、多くの人が亡くなり、負傷しました。
人間はつくづく恐ろしいことを考える生き物です。
今まで、何人もの土佐町の人から高知市の空襲の話を聞きました。「山峡のおぼろ」を書いてくださった窪内隆起さんも「防空壕」という話の中で、高知市の空襲について書かれています。学徒動員で高知市で仕事をしていた時に空襲に遭い、顎の下まで水に浸かりながら橋の下に隠れて助かったという話をしてくれた方もいます。土佐町でB29がまるでトンボの群れのように飛んでいたのを見た方もいます。話してくれたのは皆、80代後半から90代の方たちです。戦争時の体験を自らの言葉で語れる人は、年月とともに少なくなっていきます。
人間は恐ろしいことを考える生き物ですが、言葉で伝え合うことのできる生き物です。言葉を使い、人間ならではの想像力を働かせ、互いの思いと存在を大切にする。膝を突き合わせて話し合う。一見当たり前のようなことですが、それらができなくなる時、争いが起きるのではないでしょうか。
この「高知の空襲」の本は、高知市の図書館「オーテピア」で展示されていました。高知県で暮らしている今、この本に出会えて本当によかったです。この本を作った人たちの心からの叫び、「もう二度と戦争を起こしてはならない」という思いが痛いほど伝わってきました。