「② 天下泰平の世の火縄銃」の続き
国境警備の番所に置かれたものの他、野中兼山が平時には直属の鉄砲足軽を山林伐採に当たらせていた記録があるから、そのことと関係があるのかもしれないが、それを差し引いても多すぎる。
一つ考えられるのは、山に暮らす人々にとって、火縄銃を手離したくない切実な事情があったのではないかということだ。戦さはなくなっても、貴重な作物を喰い荒らし、時には村人を襲う害獣との戦いである。
村々では、害獣駆除用の火縄銃を必要としていた。戦さ経験のある者が回りの村人たちに使用法を教え、本来武器であったはずの火縄銃を生活用具に転用していったのだ。こうした山に住む人々のしたたかさ、逞しさの前に、藩も火縄銃の所有を認めざるを得なかったのではないかと思う。(庄屋や藩の下役に銃と火薬、弾丸を別々に管理させるなどの厳しい取り決めはあっただろうが…)
ところで、火縄銃は、故障して使えなくなると、銃身や機関部だけが外され、新しい部品と交換したうえで使用された。それを支えたのは、領内各地にいた鉄砲鍛冶である。江戸時代の土佐には、中村・久礼・窪川・須崎・佐川・本山・片地・佐古・韮生・山北・白川・北川など、各地に火縄銃を造る職人がいた。そして、森郷にも「土州森住義頭」と銘を刻む鉄砲鍛冶がいた。彼の工房には、普段は野鍛冶をする下請け職人もいたはずだ。現在資料館にある古式銃を改造したのは、こうした職人の末裔ではないだろうか。
火縄銃は、命中精度が高かったものの、雨天時にはまるで使えないという致命的な欠陥があった。しかし、幕末に欧米から洋式銃が輸入されると、その先進的な構造に刺激を受けた全国各地の鉄砲鍛冶により、火縄式から管打ち式への改造が試みられた。資料館にあるのは、まさにこの時期に改造された銃だったのである。
銃の改造箇所をよく見ると、火縄ばさみを撃鉄に付け替え、火皿を金属で埋め、雷管を付ける細工がなされている。雨天時でも点火がスムーズに行なえるよう、持ち主のために銃の性能が高められているのだ。
金次第で欧米式のライフル銃が買える時代になっても、古式銃を使い続けた事実は、「モノ」や「道具」に対するこの地の人々の向き合い方を示しているような気がしてならない。 たとえ記録には無くても、先人たちの知恵と工夫がたくさんつまった「モノ」が目の前にある。「モノ」から地域の歴史を見ることの醍醐味を、ここの資料館は教えてくれる。
民具資料館は、本当におもしろい!