4領目にとりかかった12月、懐かしい来客があった。少し背が伸びた中2のT君だ。
その日は人手が足りず、あまり作業が進んでいなかったので、早速彼にも手伝ってもらった。元々センスがあることは分っていたが、とにかく飲み込みが早い。作業の手順をすぐに覚え、即戦力になった。
そう言えば、中学校の授業でも、T君のように飲み込みの早い生徒が多かったので、授業がやりやすかった。
社会科はよく暗記物といわれる。確かに覚えることは必要だが、肝心なのは自ら視点を持って分析すること。小・中学生のうちに地域の生の資料に触れる機会がもっとあればいいのに…。T君を見ていてあらためて思った。
作業は終盤に差し掛かっている。解体した甲冑のパーツは本来の収納場所へ帰らねばならない。ところが、当然あるはずの鎧櫃が見当たらない。もう無くなってしまったのだろうか…。いや、あったあった。見つけたのはくだんの委員会の精鋭たち。「せんせー、あった。でも「衣紋箱」って書いちゅうで…」と、まるで中学生のような声がする。
この作業をしていて一つ気付いたことがある。それは、ここにはここの流儀があるということだ。以前触れた「種子島銃」の話とも共通するが、たとえ管打式に改造されていたとしても、所蔵者がそう呼んでいたのならそれでよいのではないか。狭小な資料観で地域資料の個性を消すことは、意味がないのではないか?
迷った挙げ句、鎧櫃はそのままにした。所蔵者は明治以降、使われなくなった甲冑を鎧櫃と別置きにし、大切な着物を入れる衣紋箱(衣装箱)として使った。それはそれで家の歴史だ。民具資料館としては、そこを大事にすべきだと思う。
とは言え、未練がましく鎧櫃の蓋を開けたり、閉めたりしていたら、見たこともないものが目に止まった。蓋の裏に貼り付けられた守札(まもりふだ)である。なぜこんな所に守札が?「武士が命より名を惜しんだというのは建前。そうありたいという願望。実際には死を恐れ、生き残ることを神仏に祈った」と、ある専門書に書いてあるのを思い出した。
兜や胴に「南無阿弥陀仏」と刻んでみたり、兜の内側に守札を、胴の内側には小さい鎧仏(よろいぼとけ)を忍ばせることもあったらしい。武士も人間。考えてみれば当然だ。この鎧櫃の守札も死を回避するための神頼みに他ならない。
郷士が、郷の外に出るのは、土佐藩の恒例行事「御馭初」(おのりぞめ)か、特別な演習の時だけである。戦さもない時代なので、命を懸けるほどの奉公はなかったはずだ。ではこの守札は何のために貼り付けられたのか。
西村家の「家譜」によれば、幕末の当主・西村昌蔵が、藩命により大坂警備に従事している。恐らくこの鎧櫃を担いで住吉の土佐藩陣営か堺警備に赴いたのだろう。この守札をそっと偲ばせたのは、夫の身を案じた妻だったのかもしれない。
数ヶ月後、無事昌蔵は帰還している。その目には、江戸幕府が崩壊していくさまをまざまざと刻み付けてきたことだろう。
何気ない一つの資料から、日本史が透けて見えてくる。
これだから資料整理はやめられない。