歴史の授業で、生徒に好きな時代を挙げさせると、必ず出てくるのが幕末だ。坂本龍馬や中浜万次郎の名はみんなが知っている。だが、私の授業では、超有名人の彼らの話はそこそこに、自分の先祖の話を取り入れるのが常だった。
幕末の土佐藩は公武合体派(1)だったが、土壇場で倒幕に舵を切った。そして、それを軍事的に可能にしたのが板垣退助だった。板垣は、土佐藩の誇る西洋式歩兵大隊を編成し、戊辰戦争では迅衝隊(じんしょうたい)の司令として部隊を率いた。
実は私の縁戚に当たる人物が板垣の部下だったらしく、その名を野本平吉直繁(のもとへいきちなおしげ)という。二番小隊の小隊長で、「従軍日記」を遺していた。この「日記」によれば、慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでの会津藩兵と新選組は滅法強く、味方に多くの死傷者が出たことが記されていたらしい。必ずしも新政府軍の圧勝ではなかったのだ。(2)
同年2月14日、再編成を終えた迅衝隊は、江戸を目指して京都を立った。しかし、そのなかに平吉の姿は無かった。部隊の出発前、平吉は無断で宿舎を抜け出し、商家において金子(きんす)を借用しようとした。偶然居合わせた同僚に不正を見咎められ、逃走した挙げ句、市中で逮捕されてしまう。取り調べの結果、軍規違反の罪で斬首を命じられた。命じたのは板垣だった。(3)
板垣は軍規に厳しかった。しかし、だからこそ、戊辰戦争における土佐藩兵の規律は「薩摩・長州よりいい」と言われていた。時は流れ、自由民権運動が盛り上がっていた頃、板垣の演説会が北関東や東北地方などで盛況だったのは、案外こうしたことも背景にあったのかも?…などという話をすると、生徒たちは、私の先祖の話から板垣の人柄に思いを馳せ、歴史嫌いの生徒たちも、少しだけこの時代を身近に感じるのだった。
そう言えば、先日民具資料館で江戸時代の土地台帳をめくっていたら、土佐町内に領知(土地)を持っていた藩士の名前が見え、あるページで手が止まった。そこには何と「乾退助(板垣退助)」の名があった。
板垣退助の家は、江戸時代には「乾姓」を名乗っていた。乾家の先祖は甲斐国出身で、主人・山内一豊に従って土佐に入国している。江戸初期のことはよく分からないが、四代・正方の時には、御馬廻組頭を勤め、二百石取りの上士だった。興味深いのは、領知の内の十八石が何と現在の土佐町内にあったことだ。
ワクワクしてさらにページをめくると、今度は「野本平左衛門」(本家筋)の名が見えた。何の因果か、土佐町でも私の先祖は板垣退助と関わりがあったのだ。
まさに歴史が身近に感じられる瞬間だった。
註
(1)「公」は朝廷、「武」は江戸幕府のこと。土佐藩主・山内豊信(容堂)が徳川家に恩義を感じていたため、土佐藩は最後まで朝廷と幕府が協力して新政府をつくることを藩論としていた。
(2)迅衝隊が入京したのは、鳥羽・伏見の戦いが終わった後なので、この話は戦闘に加わった先発の藩士から聞いたことを書き留めたものとみられる。
(3)平吉の家は、元文五年(1740)年頃本家から別れた分家である。本人は品行方正、学問優秀で藩から表彰されている。山内容堂の小姓(こしょう)にも抜擢された期待の人材で、板垣の信頼も厚かった。