冬のある日、干し芋をつくるために房子さんと畑にある芋つぼへさつまいもを取りに行った。
後ろに組んだ手にかごをさげながら、少し背中を曲げて山道を登っていく房子さんの後ろをついていく。
坂を登りきった畑の横に芋つぼはある。大人の背丈くらいの高さのトタンの屋根の下にはかがんでやっと入れるくらいの入口があって、そこから這うように地面に潜るように芋つぼの中へと降りる。籾殻がいっぱい入っていて、動くとさくっ、さくっと音をたて、中はほんのりと暖かい。かがまないと歩けないからしゃがんで周りを見渡すと、石垣で小さく囲まれているのがわかる。まるで籾殻の詰まった秘密基地に入っているよう。この芋つぼは房子さんがお嫁にきた時からあったのだそうだ。
籾殻の中にはさつまいもが埋められていて、お芋は籾殻と土に守られ、冬の寒さでもしびずに(腐らずに)春になるまで食べられるのだ。
籾殻を手でかき分けて「ああ、あったあった。」とさつまいもを探し出し、ついている籾殻を丁寧に払いながらかごに入れていく房子さんを見ていたら、じわっと涙が出てきた。
こうやって、いつだって、お願いしたことを引き受けてくれる。
「あんたがやりたいようにやったらえいよ」と言って。いつだって「そうかそうか」と話を聞いてくれる。
いつだって損得関係なしに自分たちで作ったものをわけ与えてくれる。自分が身につけた知恵を伝えてくれる。
覚さんと房子さんの存在に、今までどんなに助けられ支えられてきただろう。
おふたりの、そこにその人がいるからそうするのだ、というさりげなさ。その佇まいを、いつか私も身につけることができるだろうか。私には何ができるだろうか。
息子が4歳頃のことだった。
日が暮れかかった頃、窓の外を見ながら、息子は、「おじいちゃんとおばあちゃんちにあかりがついたね。もう夜ごはん、食べたかなあ。」としみじみと言った。そんな風に感じていることがとてもうれしく、覚さんと房子さんにそのことを話した。すると、おふたりが言った。
「わたしらあも、同じこと思いゆう。鳥山さんちにあかりがついたなあ、って」。
同じ気持ちで、お互いの家のあかりを見つめていた。そんなこと、知らなかった。
この町に来たばかりの頃は、知っている人が誰もいなかった。そうだったはずなのに、でも今は、この地で出会った人とこんな風にお互いの家のあかりを大切に思い合えるようになれるのか。
覚さんと房子さんのその言葉を聞いて、泣いた。
世の中には本当に色々な暮らしがあって、色々な出来事も、色々な感情も、混ざり合い絡み合いながらその場所にあるのだろう。
もしできるのなら、今よりもほんの少しでもいいから、隣にいるあの人、近くにいるあの人、大切なあの人、これから出会うだろう誰かの存在を心の中でそっと思い合えたら。その人の家のあかりを大切に思い合えたら、と思う。
もし、世界中のひとりひとりの心の片隅にその思いを持てるなら、世の中というところは、きっと、やっぱりよきところなんだと信じ合えるかな。
今日も夜になったら、おじいちゃんとおばあちゃんの家にあかりが灯る。
ぽつり
ぽつり
ぽつり
あの人の家にも、あの人の家にも。
家々にあかりが灯っていくように、人の心にも、あたたかな、たしかなあかりが灯っていきますように。
上田のおじいちゃんとおばあちゃんに出会えて、私はとても幸運だった。
これからも一緒に「今」という時間を積み重ねていけたらと願っている。
出会えた奇跡に、心から感謝を。
(終わり)
上田
たまたまですが、私の母の名前も同姓同名の上田房子といいます。よく、間違えられるそうです(笑)
鳥山百合子
上田さんコメントありがとうございます。お母さまも同じお名前なのですね。土佐町にお住まいなのでしょうか?
細川博司
まっすぐに見つめ
鎮まって聞く
深いところに刻まれたものが
静かに語られる
誇張しない
ただ淡々と
日々の暮らしと人の交わりが
読まさせて頂きながら
なぜか涙ぐむ自分に気がつく
お笑いください。
齡60涙もろくなりました。
石川さんの画像共
これからも愛読させて頂きます。
鳥山百合子
細川さんありがとうございます。
毎日の暮らしの中に喜びや大切なことがあるんやなあと思うようになりました。ささやかかもしれませんが、かけがえのないこと。そのことを見つめる目を心のどこかに置いておこうと思います。細川さんのコメント、とてもうれしかったです。これからもどうぞよろしくお願いします。