野中兼山が作った新井堰と新井筋
前回、土佐町とも縁が深い歴史上の人物「野中兼山」の人生を駆け足で説明しました。
実際には兼山という人は土佐藩家老であったので、その影響は現在の高知県全域に及んでいます。
記事の中で、兼山の功績を極端にはしょった形で
- 南学(朱子学)の導入
- 堰・用水路の建設
- 港湾の修築
の3つに絞りました。今回はこのうちの「2. 堰・用水路の建設」に関係の深い話です。
野中兼山が作った堰や用水路は、高知県のいたるところで目にしますが(山田堰などが有名ですね)、土佐町にもいくつかあります。
この時代に堰と用水路が整備されたことで、土佐藩の農業収穫量が飛躍的に改善したのだそう。
兼山政治には陽と陰、両方見聞きしますが、このこと自体はまさに「国の礎」を作ったと言って良いと思います。
実際に歩いてみた
土佐町の床鍋という地区に「新井堰」があります。
新井堰からスタートして東に伸びる用水路が「新井筋」。
今回はこの新井筋を実際に歩いてみました。
スタート地点は「新井堰」。兼山の時代以降、さらに整備が進み、現在はコンクリート製の堰になっています。
出発! 行けるところまでは自転車で、その後は徒歩で行けるところまで。
すぐに水路は道路を渡り左側へ。
床鍋から駒野へ入ります。
地区の境目
動画中に難しかったのは、画面左上に表示した地区名のタイミング。
正確にどこが地区と地区の境目か把握するのが難しく、不正確な部分があるかもしれません。この部分、もし間違いを見つけたらお知らせいただければありがたいと思います。
皆さまの知恵をお借りしたいところです。
上ノ土居。
ここは自転車で走っていてとても気持ちの良いところ
土佐町役場前
大谷近辺。画面左を走る水路が、画面右手の田んぼに水を供給しているのがわかります。
この新井筋が完成したことで、それまで田んぼには向かなかった土地で稲作をできるようになりました。
土佐町史には、土佐町に伝わる「元禄六年 森村地検帳」により、新井筋が開通したことで森村の水田が25%増加したことがわかると記されています。
ちなみに元禄六年は1693年です。
ここは右手に国道が通っているところ。国道側から見覚えのある方も多いかもしれません。
「用水路を作る」と一言で言っても、重機も存在しない時代に、それは大変な重労働であったでしょう。
考えてみれば、用水路がきちんと作動するためには、スタート地点の新井堰から、ゴールの早明浦ダムまで、ずっときれいな下り坂である必要がありますよね。
そうでないと途中で水が止まったり溜まったりしてしまいます。水路建設時には、ろうそくの光を用いてこの高低を測量していたという話も聞きました。
そうやってやっとの思いで作られたこの水路を、その後何世代にもわたって綿々と守り続けている地元の方々がいて、そうして今のこの状態が守られているということがわかります。
中島に到着!観音堂にぶつかるんですね。
一旦は見失いました。
あった!
ここはラストスパート。
ここでも一旦は水路を見失うのですが、早明浦ダムの下方にゴール地点を探しに行きます。この後は動画で確認してください。
このゴール地点の後は、地蔵寺川に合流し、吉野川に合流し、徳島県を通り、徳島市で紀伊水道に流れ込みます。
歴史はつながっている
「日本三大暴れ川」のひとつにも数えられる吉野川(土佐町ではその支流である地蔵寺川)の水流を、いかにして抑えこみ人間のために働いてもらうか、それが古来からのこの地の大きなテーマだったそうです。
その大きなテーマにひとつの解答を与えたのが、1636年に土佐藩家老に就任した野中兼山の仕事でした。
「野中兼山」という名前は、決して教科書の中の偉人のものではなく、現在の土佐町の暮らしの土台に直結するものだということを実感した時間でもありました。
藤﨑 富実子
2014年までの3年間土佐町小学校で勤務していた藤﨑 富実子と申します。
野中兼山の授業を考えていて、ネットでも調べていたところ、石川さんのとさちょう物語に当たりました。水路をこんなに詳しく撮影されていて感動しました。
よろしければ写真など、利用させていただけたらありがたいです。
このHPも紹介させていただいてよろしいでしょうか?
とさちょうものがたり
藤崎さま コメントありがとうございます! どうぞどうぞ、使っていただければ嬉しいです。