旧地蔵寺村西石原の出身。旧石原小学校を出て、旧制の海南中学校(現小津高校)に入学したのが昭和20年の4月で、その4ヵ月後に敗戦となった。
兄弟夫婦で時々西石原に帰って、家に風を通し、墓参りをして、草取りなどをしている。
今は車で簡単に往復することが出来るが、そんな現在を考える時、必ずと言っていいほど思い浮かぶのは戦中戦後の一時期、高知と西石原とを歩いて往復した苦闘の思い出である。
バス便は幼年時代からあった。しかし太平洋戦争末期になるとガソリン不足から、燃料が木炭になり、そのバスも敗戦から1年ほど前に姿を消した。
忘れられないのは海南中学校受験の時、高知市に行く方法がないので、供出の木材を運ぶ馬車の荷台に乗せてもらったこと。朝に出て夕方に着いた。試験が終わって帰る時も馬車に乗った。
しかし馬車は毎日あるわけではなく、苦肉の策として人々が思いついたのは、歩くということだった。
バスが通っていた道路を歩くと、曲がりくねった山道なので大変時間がかかる。
そこで炭焼きさんとか伐採夫さんとか、山に詳しい人たちが知恵をしぼって考え出したのが、山越えで高知市まで歩く方法である。
その人たちがまず試しに歩いてみて、たちまちみんながその方法をとりはじめた。それしか方策がなかったのである。
どこを歩くのか全く判らないので、最初は用事で高知市に行く大人について行った。
西石原の押の川から、辻ヶ峰という山に分け入り、その峰を越えるのだが、道というものではなく、獣道をくぐるようであった。そうして植林や雑木林の中を通り、現在の鏡ダムのほとりに下りた。
それからもだいたい誰かと一緒に歩いたが、日程の関係で一人で山越えしたこともあった。人にはめったに会わなかったが、山村育ちなので余り不安は感じなかった。午前8時頃に出て、午後3時か4時頃に着いた。
バスは戦後もしばらくなかったので、その間休暇の時などは歩いて往復した。
慣れてくると余裕が出て、歩く脇の小谷にアメゴがいないかと思い、一度釣竿を持って行って釣ったが、モツゴばかりが釣れた。
もちろんバス便が復活してからは、この山越えをする人は居なくなった。
あの時どこをどう歩いたのか、今考えてみても、どうしても思い出せない。