鳥山百合子

土佐町ストーリーズ

土佐町小学校修学旅行団!

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「土佐町小学校修学旅行団は、本日の日程を終了し、無事、宿泊先に到着致しました。保護者の皆さん、関係者の皆さん、ご安心ください。こちらは土佐町役場です。」

5月20日から22日の夕方、土佐町小学校6年生の子どもたちが神戸、大阪、奈良へ修学旅行へ行っている期間に流れた町内放送。(「修学旅行団」という言い方は面白いなと毎年思う。)

 

小学校の修学旅行だけではなく、5年生の室戸合宿や、中学校の修学旅行の時にも同じ放送が流れます。その日の夕方、役場に宿泊する宿直さんが「無事に宿に着きました!」という先生からの連絡を受けて、マイクに向かっていると思われます。

今回、6年生の長女が修学旅行に行っていたので、この放送を聞くことを心待ちにしていました。弟妹は、わざわざ町内放送の機械(電話のそばに取り付けてある)の前に座って宿直さんの声に耳をすまし「無事着いたって!」と安心したように教えてくれました。

今まで何度もこの放送を聞いてきましたが、自分の子どもが出かけているわけでなくとも、この報告を聞くと「うんうん、よかったよかった。」と思う自分がいました。
そう思えるのは、なんだかいいなと思います。多分それは私だけではなく、土佐町の多くの人がそう思っているんやないかなと思います。

 

こんな放送は都会ではありえません。
町のみんなで子どもたちを見守っているような、応援しているような感じがとてもいいなと思うのです。

 

*町内放送とは・・・
朝6時に土佐町歌(目覚まし時計がわり)、6時40分と12時40分に町のお知らせ、15時にラジオ体操第一、18時40分に町のお知らせが町内に一斉に流れます。
(町内放送の機械を取り付けると、家の中にいても放送が聞けます。)

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とさちょうものづくり

シルクスクリーンものがたり その3

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(シルクスクリーンものがたり その2はこちら

上田浩子さん(通称ひろちゃん)が「一緒にパン作ってみる?メンバーさんの人柄やその人となりが伝わると思うから」と声をかけてくれました。どんぐりで取り組んでいるパン作りの現場を半日体験させてもらいました。

この日、クッキーの袋詰めを教えてくれた高橋さん、オーブンを担当していた石川さん、きほさんが中心になって、今、シルクスクリーン作業に取り組んでいます。

どんぐりのメンバーが来て、作業場でシルクスクリーン体験。

初めは集めた古着で何度も練習。
インクの量が多かったり、反対に少なすぎてかすれたり。
版を抑える木枠にインクが付いていないか、版をおく位置は大丈夫か(一度置いたら動かせないのです)、一つ一つの工程を確認して進めていきます。

いざ本番。
プリントがずれたり、ポロシャツにインクがついてしまったり…。
ポロシャツを再注文し、やり直したことも何度もありました。

作業の回数を重ねることで「ちょうどいいインク量」にする加減を見つけ、クオリティーがどんどん高くなっていったのです。

土佐町長、和田守也さんも作業場を見に来ました。

 

町長のポロシャツ完成。みんなで届けに行きました。

町長室にお届けに行くの図

 

自分たちで作ったものを注文した人の元へ届ける。それが代金になって返ってくる。この売り上げはどんぐりの運営資金、とさちょうものがたりのシルクスクリーン運営資金になります。

長年コツコツとパンを作って来たどんぐりの皆さんと一緒にシルクスクリーンに取り組むことは、とさちょうものがたりにとって大きな喜びであり、挑戦でもあります。

とさちょうものがたりで取り組んできた「シルクスクリーン」が町の人たちの実際の生活とつながった実感があります。

 

土佐町役場前にある作業場に来て「なにしゆうが?」とのぞいていく人も。少しずつ周知され、ここが人の集まる場所のひとつになったらいいなと思います。(と言いつつもう少し広いところへ引っ越しを予定しています笑)

町内外から注文をいただいている「とさちょうポロシャツ2018」。
ひとつひとつの出来事を積み重ねながら、少しずつ進んで来ました。おかげさまで町内外からたくさんの発注をいただき、5月16日現在、150枚を超えました。

これからどんな展開が待っているのか?
とても楽しみです!

 

【販売開始!】とさちょうポロシャツ2018

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とさちょうものづくり

シルクスクリーンものがたり その2

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(シルクスクリーンものがたり その1はこちら

 

⬜︎新たなTシャツ

その後Tシャツも町の方から新たな発注をいただき、その都度周囲の方々の力を借りて完成させていきました。この川田ストアTシャツの制作は、なんでも作っちゃう職人さん・川田康富さんと仕上げました。

駅伝大会での川田ストアチームTシャツ。走った後の松井ちゃん。

 

マリンバ教室のチームTシャツは高校生2人が手伝ってくれました。

 

⬜︎イベント「シルクスクリーン x くるくる市」

略して「シルくる市」と名付けているのですがイマイチ流行りません笑

みんなで着古した服を持ってきて、シルクスクリーンで印刷して新しい服に生まれ変わらせよう!というこのイベント。とさちょうものがたりで素敵な連載を続けている「むかし暮らしの宿 笹のいえ」との共同開催。

2018年2月24日に開催。たくさんの人が古いTシャツやパーカーやエプロンを持って来てくれました。

 

⬜︎土佐町パレットサイン

2種類のパレットサイン

 

話は戻って、シルクスクリーンを始めた当初の目的、もらいもののパレットで作る土佐町看板。やっとシルクスクリーンでも作ってみました。(『土佐町パレットサインを作ろう!その2』)

 

⬜︎どんぐり登場!

土佐町役場では役場職員を中心に、毎年オリジナルのポロシャツを作っていました。従来は都会の業者さんに頼んでいたものを、町の中での仕事にできたらええね!ということで‥。

「土佐町オリジナルポロシャツをシルクスクリーンで作ろう!

町の障がい者の作業にできないか?という勧めが周囲からあったこともあり、どんぐり」に相談してみました。

どんぐりは、障がい者の就労支援事業を行なっています。17年前からパンや焼き菓子などの製造販売、最近では地域の施設などの清掃を行ってきました。

初めての打ち合わせの時、どんぐりの上田浩子さんと筒井孝善さんが話してくれました。

どんぐりの職員が日々思うことは、『働く場所はその人の居場所である』ということだ、と。

メンバーさん自身がやりがいの持てるお給料を渡したい!
そのためにも今以上の仕事を作りたい!

その思いをずっと持ち続けてきたそうです。

 

「とさちょうものがたり」と「どんぐり」はタッグを組むことにしました。

初めての打ち合わせ

この時、ふたりが「メンバーさんが地域に出て仕事をしていくのはとてもいいこと」と話していました。
今まで取り組んで来たことの他にも仕事があれば、メンバーさんが自分で選択して仕事をすることができる。工賃も増やすことができる。

どんぐりは仕事のできる場を探していた。とさちょうものがたりは一緒にシルクスクリーンに取り組める人を探していた。

具体的なやり方はまだまだ固定していません。試行錯誤のまっただ中。だから対等に意見して一緒に作り上げていくこと、感じたことは伝え合って共有していくこと、という前提を持ちました。クライアントや下請けという関係ではありません。

           (その3に続く)

 

 

 

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とさちょうものづくり

シルクスクリーンものがたり その1

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現在、町の障がい者就労支援事業所「どんぐり」の皆さんとシルクスクリーンで土佐町オリジナルポロシャツを制作中!

 『とさちょうものがたり』が取り組むシルクスクリーンの始まりから今までを、ちょっと振り返ってみたいと思います。

 

⬜︎土佐町のロゴ看板を作る

木材加工のプロ・さめうらこむでテスト版を作ってもらうの図

 

いきなりシルクスクリーンから話が逸れましたが、土佐町のロゴを木のパレットにプリントし町の色々な場所へ置きたい!(『土佐町パレットサインを作ろう!』)と土佐町の「さめうらこむ」さんにお願いし、土佐町のロゴをデジタル彫刻機で掘ってもらいました。今、土佐町役場入り口に置かれています。
これがとさちょうものがたりがシルクスクリーンを始めるきっかけになりました。
この看板をシルクスクリーンで作ろうと着々と準備を進めていましたがその前に‥。

 

⬜︎下田昌克 x とさちょうものがたりTシャツを作る

下田さん描き下ろし・土佐町でもらった食べ物

パレットサインは一旦置いておいて。

2017年10月に絵描きの下田昌克さんが来町した際、「下田さんに絵を描いてもらいオリジナルグッズを販売したい!」「シルクスクリーンでTシャツにプリント、販売しよう!」ということに。現在、版は外注していますが、最初は版も作ろうととさちょうものがたり編集長の石川が試行錯誤していました。

⬜︎洗濯したら落ちた!

「下田昌克とさちょうアート展」会場にてシルクスクリーンを担当してくれたまーちゃん

 

10/8に開催された「下田昌克とさちょうアート展」にてTシャツを販売したまではよかったのですが‥。
翌日、複数人から「洗濯したら落ちた!」という悲しい連絡が…。
インクの乾燥がきちんとできていなかったのが原因でした。イベント後に回収・交換に追われました(泣) 当時ご迷惑をおかけしたみなさま、改めてすみません!

京都の師匠・片桐さん

 

これではいかん!と、石川が京都のシルクスクリーン工房に短期弟子入りし技術を学びました。必要な道具を揃え、ここからプリントの技術も格段に上がりました。(『とさちょうシルクスクリーンこと次第』)

 

         (その2に続く)

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山の手しごと

畦を付ける その1

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土佐町相川地区。美しい棚田が広がり「相川米」という名のついた美味しいお米の生産地です。

夕方になると、水を張った田んぼは向かいの山々の輪郭や夕焼け空を鏡のように映し出し、その時を待っていたかのように、あっちからこっちからカエルが大合唱を始めます。「これは土佐町の第九やね」と言った人がいましたが、なんとも上手くその時の様子を言い表していると思います。

こんな風景を土佐町の毎日のなかに見ることができるのは、田んぼを守り続けている人たちがいるからです。

 

今年も田んぼの準備が始まっています。3月下旬ごろから、土佐町の田んぼに「畦(あぜ)」が付きます。
今は機械で畦をつける人が多いですが、昔は又鍬と平鍬を使い、田んぼの周りをぐるりと一周、人が畦を付けていました。
必要最低限の機械と人の力でお米を作っている人は、一年間の田んぼの仕事の中で「畦付けが一番しんどい」と言います。

 

 

土佐町相川地区高須の沢田清敏さんが「これから畦を付けるき」と言うので、その様子を見せてもらいました。

清敏さんは麦わら帽子をかぶり、三又鍬を肩に担って、ずぶずぶと田んぼに入っていきます。

清敏さんの田んぼはすでに機械で畦が付けられていますが、機械が大きいのでどうしても「手の届かないところ」が出てきます。その部分を人の力で付けるのです。

 

「昔は田んぼに水を溜める前に畦を「かいで」た。平鍬でかいで、かいだら水を貯める。昔は畦付け機なんかなかったきね、田んぼの縁周り、ぜーんぶ平鍬で、かがないかんかった。」


これが「平鍬」 


「かいだ土を練って、練ったものを又鍬で畦を付ける。ほいで、この上をもう一回、平鍬で、左官屋さんがするみたいに、すーーーっ、と平くするがよ。今はそういうことはせんなったけど。
そこの角なんかはどうしても機械で付けれんろ。付けれんところは手で付けるがよ。」

 

「でも今日は平鍬でまでようせん。そこまでしよったら大変! 見えは悪いけんどね。ようは、もぐらが穴を開けて水を漏らさんために畦を塗るがやきよね。」

 

清敏さんの田んぼは、一部コンクリートになっているところがあります。

「コンクリートのところも機械で(畦を)付けれるけんど、コンクリートの縁まで機械がぴったりいかんき、縁周りの畦の幅がひろうなるわけよ。もったいないわね。やき、コンクリートのところは手で畦を付ける。しんどいけんど、その分苗が植えれる。一株でも多く植えれるように。楽をしようと思ったらこんなことせんでも構わんけんど。」

 

その言葉には、清敏さんの姿勢が現れているような気がします。

 

                     コンクリートの縁にも畦を付けていく

 

畦を付けるろ、田植えの一週間くらい前に肥料を振って、もう一回代掻きをするがよ。叩いたら(意味:耕したら)土がどうしてもやりこい。土を落ち着かすがよ。

あんまりドロドロのところを植えたら、どうしても植えた時に「かやる」。苗が立たなあね。一週間ばあ置いちゃったら土も落ち着くし、水の中で土が固くなってくる。」

「ほんなら帰って、自分くのやってみて!」 そう言って清敏さんは笑った。

 

「畦をつける時は、雨が振って4〜5日ばあ経ってから。もうそろそろ畦をつけないかんというても、あんまり天気が続いて土そのものがカラカラやったら山ができん。ある程度水分を持たしたら山ができるろ。そういう感じよ。

みんな天気予報を見ながら段取りを考えゆう。雨が振ったら『4〜5日後に畦つけるぞ』と思うちゅう。
ちょうどいい土の状態を見て『明日やろう』って決めるがよ。」

 

清敏さんに聞きました。
「畦を付ける頃、もし雨が降らんかったらどうするんですか?」

 

清敏さんは、少し考えて答えてくれました。

「春先、桜の花が咲く時分いうたら、いつでも毎年よう雨が降らあ。今年は桜の花が咲いた時分、うんと天気が続くのは続いたけんど。大体普段は一週間に一回は降るもんよ。」

清敏さんの言葉には迷いがありませんでした。

まっこと自然はうまいことできているなあ!と思います。

 

「田んぼに足音を聞かせてあげなさい。」と近所のおばあちゃんが話してくれたことがあります。

それがお米を育てる一番の秘訣だ、と。

 

土佐町の先人たちが引き継いできた田んぼに、今年も足跡が重ねられていきます。

 

 

 

 

  又鍬で畦を付ける沢田清敏さん

 

 

                          機械で畦を付ける         協力:澤田光明さん

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土佐町ストーリーズ

5月の風

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先日、お世話になっている人に土佐町の色々を詰め込んで宅急便で送った。

まず、乾燥させたゼンマイとワラビ、塩漬けしたイタドリ。

「本物はこれなんです」と知ってほしいから、山から採ったばかりのゼンマイとわらび、イタドリも少しずつ新聞紙で包む。

近所のおじいちゃんからいただいた茹でたけのこも入れた。

他にも里芋、生姜、干し椎茸、お米。

それからお花農家さんのアネモネの花束。

(土佐町高須地区の沢田みどりさんはハウスでアネモネを育てています。アネモネの時期が終わり、次の花を植える時、いつも「アネモネを取りにおいで」と毎年声をかけてくれるのです。みどりさん、いつもありがとう。)

 

箱いっぱいに詰め込んで、ハガキも入れて封をする。

これは「春風便」。

 

宅急便を送る時、いつも思い浮かぶのはその人の顔。

その人が喜んでくれるといいなと思いながら、自分が一番喜んでいるのかもしれない。

 

こんなことをしている頃、新緑の山に藤の花の色が重なり、5月の風が吹く。

木々の若葉を揺らす爽やかな風。

川の水面をきらきらと揺らしながら吹きぬけてゆく風。

うーーーん!と背伸びして深呼吸して、思わず走り出したくなるような風。

 

本当にその人に届けたいのは、実はこの5月の風だったりする。

 

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パクチー銀行

パクチー、芽が出た!

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ついに!パクチーの芽が出ました!

2018年3月31日に蒔いたパクチーの種。毎日毎日畑にしゃがみこみ、芽が出てるかな?とその日を首を長くして待っていました。

しかし、待てど暮らせど芽が出ない…。

種のまき方がよくなかったかしら?

雨が降らず土がカラカラなのに、まあ大丈夫やろう、と水をやらなかったから?

ちょっと諦めかけていました。

でもついに!

雨上がりの4月25日の朝、パクチーの芽を確認しました!

「やった、やったー!」思わず叫んで拍手!

芽が出たばかりでもパクチーの葉っぱの形そのままなんて、本当にびっくりしました。

 

破綻したパクチー銀行土佐町支店に箱いっぱいの種を融資をしてくれた安曇野支店さん、ありがとうございます!

芽が出ましたよ!

 

 

【ニュース】パクチー銀行・復活

 

 

 

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土佐町ストーリーズ

春の台所

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さっと茹でて、きゅっとしぼって、まな板の上にのせる。
菜の花は春の色。色鉛筆の黄緑と緑を重ねたようなこの色は、台所に春を告げる。

この菜の花は、和田地区に住んでいる和田さんが畑から摘んで、新聞に包んで持たせてくれたもの。
湯気のむこうに和田さんの暮らす風景が見える。

「とんとんとん・・・」菜の花を刻む。醤油、ごま、鰹節で合える。

 

春の台所は色鮮やか。
菜の花、小松菜、春菊、人参、ブロッコリー。冬の間育てていた白菜から採れる菜の花は、やわらかくて最高に美味しい。

次は小松菜をさっと茹でて刻む。塩をまぶしてごまをも加えると、春のふりかけ。
これはごはんに混ぜておにぎりにしよう。

 

春の台所に立つ。

裏山からの水が流れる音がする。
ウグイスのさえずりが聞こえる。

「そろそろぜんまい取りにきや」。
近所の人が言ったその言葉だけで、もうそわそわしてしまう。

 

 

春の台所は忙しい。

ぜんまい、イタドリ、ワラビ、たけのこ、たらの芽…。
山菜たちが順番にずらりと並び、食べてもらうのを待っているかのようで、うれしさ半分「お願いやき、ちょっと待ってて!」と言いたくなる。

ぜんまいをゆで、イタドリの皮をはぎ、ワラビに灰をふりかけ、茹でた筍を水につける。たらの芽はそのまま天ぷらに。
とにかく毎日、何かしらの山菜たちと向き合う日々。

 

きっとこの地のお母さんたちもそうだったに違いない。
春の声を聞いて、そわそわしながら、ちょっと焦ったりもしながら、せっせと春の仕事をしてきたんだ。
お母さんたちは、台所でどんな風景を見てきたんだろう。

 

歴代のお母さんたちの気配を感じながら、今日のおかずの出来上がり。

 

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土佐町ストーリーズ

しいたけラッシュ

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「しいたけ、いるかよ?」
今年もこの季節がやって来た。

近所のおばあちゃんから袋いっぱいのしいたけをいただいた。

「しいたけを裏側にして干すと赤くなるき、上を向けて干すとえい」と教えてくれたので、早速茶色のかさの方を上にしてエビラに並べる。
遊びに来た小さな子が「パン、いっぱい!」と指差した。
確かに、こんがり焼けた丸いパンがたくさん並んでいるみたい。

しばらく良い天気が続く時は、天日干しの干し椎茸ができる。
天気があまりよくない時は、乾きやすいように薄くスライスして干したり、雨が続く時は冷凍しておく。

 

うちの裏山でもしいたけを作っていて、おばあちゃんがしいたけを持って来てくれた日に山へ行くと、あるわあるわ、駒打ちした原木からしいたけがいくつも、あっちにもこっちにも出ていた。

もう見事としか言いようがない。
どうしてしいたけたちは、今この時に一斉に大きくなるのか。

しいたけたちが、もしちょっと時期をずらしてくれたなら夏にも冬にも新鮮なしいたけが食べられるのになと思うけれど、しいたけの旬は春と秋。それは決めているらしい。

だから今、あっちの山でもこっちの山でも、しいたけラッシュ。

 

 

あっという間にカゴがいっぱいになった。
家にある全てのエビラと丸いざるを総動員してしいたけを干す。
一体いくつあるのかと試しに数えてみたら、なんと193個もあった。

しいたけを作っていないお友達にあげるととても喜んでくれる。
上手に干せたら遠くに住んでいるお友達に送りたい。

 

「しいたけ、いる?」
これはこの季節のご挨拶。

昨日はしいたけごはん、今日はひじきの煮物にしいたけを入れた。明日はバター醤油炒めにしようかな。

しばらくしいたけと向き合う日々が続く。

 

 

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土佐町の人々

地図の記憶(後編)

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前編

 

「ラバウルには空母に載せた零戦が100機も200機もようけおったけんど。僕が行った当時は、これは大丈夫と思うたのよ。
でもいかなあ。時間がたつにつれて空中でやられて、そうしゆううちに一機もおらんなった。

毎日空中戦があって一機減り、二機減りして、そうしゆううちに昭和19年6月には一機もおらんなった。
そうしたらアメリカは毎日空襲にくるしね、向こうさんも人の表情が見えるばあに突っ込んで近くに来る。

近すぎてすごい速さで来るから間に合わない。大砲なんて使い物にならんけ。こんまい機関銃じゃなきゃ。機関銃でも飛行機に当たる。当たったら撃ち落とせる。 

海軍が頑張らんと陸軍が持たんわね。武器もこんし、食料もないし。兵隊も補給せないといかんろ。怪我したり死んだりするもんもおるけね。
いつ撃たれるかわからない、いつもそういう状態。」

 

筒井さんは弾を込める係だった。直径25ミリの弾が25発入っている箱をガチャン、と設置する。

 

パンッ

 

パンッ

 

パンッ

 

下からエレベーターで箱をあげ機械で押しこむ。弾は2~3秒に一発。

 

パンッ

 

パンッ

 

パンッ

 

筒井さんは、弾と弾の間(ま)を知っている。
パンッ!という筒井さんの声が耳の奥で響いた。

 

 

 

昭和19年9月21日。アメリカの艦載機グラマンの大艦隊が襲いかかってきた。

「爆弾が破裂したけね、人に叩かれたと思うた。鉄の割れたのが飛んできて、鉄の破片が頰に入った。意識は一時はあったけど目がくらんでね、目が見えんわね。血が出て。
班長が「筒井はだめだ」と言ってるのを聞いちょった。」

 

気づいたらマニラの海軍病院だった。怪我して運ばれたのは筒井さんの他にも3人いて、そのうちの一人は足がなくなっていた。

同じ日の午後3時ごろ、3回目の攻撃で皐月は沈んだ。
筒井さんは1回目の攻撃で怪我をしたため、命は助かった。

マニラの海軍病院から病院船で日本へ帰ることができた筒井さんは、顔の傷を治すために汽車で東京の病院へ送られた。

病院船。アメリカ軍は病院船を攻撃してこなかった。

 

筒井さんは、鼻に入っている管を抜いて見せてくれた。3センチくらいの長さのチューブだった。

「鼻に管を入れんと息ができんけ。鼻の骨がないけ、これを入れないと。
胸の肉を切って、首に縫い付けた。2ヶ月ばあして血が通い出してからこれを切って、今度は顔の両脇へつけて…。少しずつ上へとあげていく。何回もかからあ、鼻まで来るのに。当時は技術もないしね。

もうあんなことは嫌じゃ。痛い。注射してさっと切って…。
今やったら麻酔かけてやるけんど、昔は痛いと言っても『兵隊は辛抱せい』と言われて。局部麻酔でパッと注射して、すんだらじゃあっ、と切って縫うて、失敗して…。」

 

 

終戦を迎える昭和20年の8月まで筒井さんは東京の病院で過ごした。
その間、3月10日の東京大空襲にあい、8月15日には玉音放送を聞いた。
終戦後は食料がなく、病院では人の食べかけを食べた。戦場だった船上よりも、生きて帰った陸上でいつもお腹をすかせていた。

 

 

 

 

後方左側、マスクをつけているのが筒井さん。

 

「マスクかけちゅうろ。それから土佐町(当時は土佐郡地蔵寺村)へ帰った。20歳じゃった。
戦争から帰って来た時、こんな顔になっちゅうろ。両親も泣くわ、人にも笑われてね。それが難儀した。
戦争のため行ったんじゃけんどね。

まあ、あの、鳥山さんも嫌じゃろ。
女房は『いや』言うて。『一緒に歩くのは恥ずかしいからいやじゃ』言うて。それでも親が、行かないかんと言うから来たんよ。今は仲がえいけんど。」

 

筒井さんは私の目を見ていた。
何か言おうと思ったのに、言葉が出てこなかった。

 

 

「とにかく一番うるさかったのは、人が見て笑うのがうるさかったね。年頃の女の人に笑われるのが一番うるさかった。
子どもに『あのおんちゃん、鼻、変な』と言われるとみんな見るろ。街に行くときはマスクかけて行ったりしたけんど。今はなんともないけどね。笑われてもなんともないけんど。20歳前後は顔が一番大事じゃけね。」

 

干していたしいたけを袋に入れて手渡してくれた。

 

帰ってきてからは、家業の農業を継ぎ、重子さんと懸命に働いてきた。子どもは3人いてお孫さんもいる。

土佐町に帰って来たばかりの頃は「生き残ったことに負い目があった」と筒井さんは言っていた。
筒井さんが背負った「負い目」が、地域の子どもたちに自分の体験を伝えることや地域のボランティア活動に向かわせたのでははないかと思った。

「最初は人と会うのが嫌じゃった。でも体験を話してほしいと言われて、決心して話すようになった。戦争はせられんぜよ、と子どもたちに言うたものよ。子どもたちから『おんちゃん、痛かったろう』という手紙がきた。
今は人と関わって元気をもらってる。人は人と関わることが大事。」
と筒井さんは言った。

その声に迷いはなかった。

 

 

「兵隊に行ったら人を殺すなんて気づかなかった。ただ国のために、と思った。今やったら行かんね。
人を殺さなきゃいかん。殺さなかったらこっちが殺される。そんなところへ行かん。当時はそこまでわからなかった。

戦争言うたら死に物狂い。よう助かって戻ってきたと思う。
戦争ゆうたら殺すか殺されるかじゃけ、戦争したらいかんということや。」

 

 

ぽかぽかと日の当たる縁側でお茶を飲み、息子さんが買ってきてくれたというお菓子と「これ食べてみや。美味しいぜよ」と手渡してくれたポンカンを一緒に食べた。
家の軒下には山からとってきたしいたけが干してある。
春の気持ちのいい風が吹いていた。

 

 

帰り際、筒井さんは「田んぼ、忙しいろう?」と笑って言った。
筒井さんは今年の田んぼの準備を始めている。

「また忙しくなるねえ」。

筒井さんはそう言いながら、ふと空を見上げた。

戦闘機や爆弾が飛び交う空の下を必死に生きた18歳の筒井さんは、それから74年後の、白い軽やかな雲がうかぶ春の空の下での今の暮らしを想像していただろうか。

島の名前が書かれた地図の記憶の先には、今の暮らしがあったのだ。
今日も、明日も、これから先もひとつひとつ、筒井さんの記憶が地図に重ねられていく。

 

筒井政利・重子 (地蔵寺)

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