鳥山百合子

土佐町ストーリーズ

しいたけラッシュ

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「しいたけ、いるかよ?」
今年もこの季節がやって来た。

近所のおばあちゃんから袋いっぱいのしいたけをいただいた。

「しいたけを裏側にして干すと赤くなるき、上を向けて干すとえい」と教えてくれたので、早速茶色のかさの方を上にしてエビラに並べる。
遊びに来た小さな子が「パン、いっぱい!」と指差した。
確かに、こんがり焼けた丸いパンがたくさん並んでいるみたい。

しばらく良い天気が続く時は、天日干しの干し椎茸ができる。
天気があまりよくない時は、乾きやすいように薄くスライスして干したり、雨が続く時は冷凍しておく。

 

うちの裏山でもしいたけを作っていて、おばあちゃんがしいたけを持って来てくれた日に山へ行くと、あるわあるわ、駒打ちした原木からしいたけがいくつも、あっちにもこっちにも出ていた。

もう見事としか言いようがない。
どうしてしいたけたちは、今この時に一斉に大きくなるのか。

しいたけたちが、もしちょっと時期をずらしてくれたなら夏にも冬にも新鮮なしいたけが食べられるのになと思うけれど、しいたけの旬は春と秋。それは決めているらしい。

だから今、あっちの山でもこっちの山でも、しいたけラッシュ。

 

 

あっという間にカゴがいっぱいになった。
家にある全てのエビラと丸いざるを総動員してしいたけを干す。
一体いくつあるのかと試しに数えてみたら、なんと193個もあった。

しいたけを作っていないお友達にあげるととても喜んでくれる。
上手に干せたら遠くに住んでいるお友達に送りたい。

 

「しいたけ、いる?」
これはこの季節のご挨拶。

昨日はしいたけごはん、今日はひじきの煮物にしいたけを入れた。明日はバター醤油炒めにしようかな。

しばらくしいたけと向き合う日々が続く。

 

 

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土佐町の人々

地図の記憶(後編)

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前編

 

「ラバウルには空母に載せた零戦が100機も200機もようけおったけんど。僕が行った当時は、これは大丈夫と思うたのよ。
でもいかなあ。時間がたつにつれて空中でやられて、そうしゆううちに一機もおらんなった。

毎日空中戦があって一機減り、二機減りして、そうしゆううちに昭和19年6月には一機もおらんなった。
そうしたらアメリカは毎日空襲にくるしね、向こうさんも人の表情が見えるばあに突っ込んで近くに来る。

近すぎてすごい速さで来るから間に合わない。大砲なんて使い物にならんけ。こんまい機関銃じゃなきゃ。機関銃でも飛行機に当たる。当たったら撃ち落とせる。 

海軍が頑張らんと陸軍が持たんわね。武器もこんし、食料もないし。兵隊も補給せないといかんろ。怪我したり死んだりするもんもおるけね。
いつ撃たれるかわからない、いつもそういう状態。」

 

筒井さんは弾を込める係だった。直径25ミリの弾が25発入っている箱をガチャン、と設置する。

 

パンッ

 

パンッ

 

パンッ

 

下からエレベーターで箱をあげ機械で押しこむ。弾は2~3秒に一発。

 

パンッ

 

パンッ

 

パンッ

 

筒井さんは、弾と弾の間(ま)を知っている。
パンッ!という筒井さんの声が耳の奥で響いた。

 

 

 

昭和19年9月21日。アメリカの艦載機グラマンの大艦隊が襲いかかってきた。

「爆弾が破裂したけね、人に叩かれたと思うた。鉄の割れたのが飛んできて、鉄の破片が頰に入った。意識は一時はあったけど目がくらんでね、目が見えんわね。血が出て。
班長が「筒井はだめだ」と言ってるのを聞いちょった。」

 

気づいたらマニラの海軍病院だった。怪我して運ばれたのは筒井さんの他にも3人いて、そのうちの一人は足がなくなっていた。

同じ日の午後3時ごろ、3回目の攻撃で皐月は沈んだ。
筒井さんは1回目の攻撃で怪我をしたため、命は助かった。

マニラの海軍病院から病院船で日本へ帰ることができた筒井さんは、顔の傷を治すために汽車で東京の病院へ送られた。

病院船。アメリカ軍は病院船を攻撃してこなかった。

 

筒井さんは、鼻に入っている管を抜いて見せてくれた。3センチくらいの長さのチューブだった。

「鼻に管を入れんと息ができんけ。鼻の骨がないけ、これを入れないと。
胸の肉を切って、首に縫い付けた。2ヶ月ばあして血が通い出してからこれを切って、今度は顔の両脇へつけて…。少しずつ上へとあげていく。何回もかからあ、鼻まで来るのに。当時は技術もないしね。

もうあんなことは嫌じゃ。痛い。注射してさっと切って…。
今やったら麻酔かけてやるけんど、昔は痛いと言っても『兵隊は辛抱せい』と言われて。局部麻酔でパッと注射して、すんだらじゃあっ、と切って縫うて、失敗して…。」

 

 

終戦を迎える昭和20年の8月まで筒井さんは東京の病院で過ごした。
その間、3月10日の東京大空襲にあい、8月15日には玉音放送を聞いた。
終戦後は食料がなく、病院では人の食べかけを食べた。戦場だった船上よりも、生きて帰った陸上でいつもお腹をすかせていた。

 

 

 

 

後方左側、マスクをつけているのが筒井さん。

 

「マスクかけちゅうろ。それから土佐町(当時は土佐郡地蔵寺村)へ帰った。20歳じゃった。
戦争から帰って来た時、こんな顔になっちゅうろ。両親も泣くわ、人にも笑われてね。それが難儀した。
戦争のため行ったんじゃけんどね。

まあ、あの、鳥山さんも嫌じゃろ。
女房は『いや』言うて。『一緒に歩くのは恥ずかしいからいやじゃ』言うて。それでも親が、行かないかんと言うから来たんよ。今は仲がえいけんど。」

 

筒井さんは私の目を見ていた。
何か言おうと思ったのに、言葉が出てこなかった。

 

 

「とにかく一番うるさかったのは、人が見て笑うのがうるさかったね。年頃の女の人に笑われるのが一番うるさかった。
子どもに『あのおんちゃん、鼻、変な』と言われるとみんな見るろ。街に行くときはマスクかけて行ったりしたけんど。今はなんともないけどね。笑われてもなんともないけんど。20歳前後は顔が一番大事じゃけね。」

 

干していたしいたけを袋に入れて手渡してくれた。

 

帰ってきてからは、家業の農業を継ぎ、重子さんと懸命に働いてきた。子どもは3人いてお孫さんもいる。

土佐町に帰って来たばかりの頃は「生き残ったことに負い目があった」と筒井さんは言っていた。
筒井さんが背負った「負い目」が、地域の子どもたちに自分の体験を伝えることや地域のボランティア活動に向かわせたのでははないかと思った。

「最初は人と会うのが嫌じゃった。でも体験を話してほしいと言われて、決心して話すようになった。戦争はせられんぜよ、と子どもたちに言うたものよ。子どもたちから『おんちゃん、痛かったろう』という手紙がきた。
今は人と関わって元気をもらってる。人は人と関わることが大事。」
と筒井さんは言った。

その声に迷いはなかった。

 

 

「兵隊に行ったら人を殺すなんて気づかなかった。ただ国のために、と思った。今やったら行かんね。
人を殺さなきゃいかん。殺さなかったらこっちが殺される。そんなところへ行かん。当時はそこまでわからなかった。

戦争言うたら死に物狂い。よう助かって戻ってきたと思う。
戦争ゆうたら殺すか殺されるかじゃけ、戦争したらいかんということや。」

 

 

ぽかぽかと日の当たる縁側でお茶を飲み、息子さんが買ってきてくれたというお菓子と「これ食べてみや。美味しいぜよ」と手渡してくれたポンカンを一緒に食べた。
家の軒下には山からとってきたしいたけが干してある。
春の気持ちのいい風が吹いていた。

 

 

帰り際、筒井さんは「田んぼ、忙しいろう?」と笑って言った。
筒井さんは今年の田んぼの準備を始めている。

「また忙しくなるねえ」。

筒井さんはそう言いながら、ふと空を見上げた。

戦闘機や爆弾が飛び交う空の下を必死に生きた18歳の筒井さんは、それから74年後の、白い軽やかな雲がうかぶ春の空の下での今の暮らしを想像していただろうか。

島の名前が書かれた地図の記憶の先には、今の暮らしがあったのだ。
今日も、明日も、これから先もひとつひとつ、筒井さんの記憶が地図に重ねられていく。

 

筒井政利・重子 (地蔵寺)

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土佐町の人々

地図の記憶 (前編)

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昭和19年9月21日、フィリピンマニラ湾。

18歳だった筒井政利さんは、商船を護衛するため駆逐艦皐月(さつき)に乗っていた。上空からの爆音、弾が頭上でひっきりなしに飛び交う。アメリカの艦載機グラマンの大艦隊が襲いかかってきた。

赤い光。

白い光。

5発に1発は閃光弾。あたりを明るく照らしながら弾が次々と飛び込んで来る。機関銃の先が真っ赤に焼けるのを見ながら筒井さんは25ミリの機関銃で必死に撃ち返す。

 

パン!!!

 

誰かに顔を殴られたのかと思った。痛みは感じなかったが突然目が見えなくなった。顔中が血で真っ赤に染まっていった。

「筒井はダメだ」。

その言葉を聞いて、筒井さんは気を失った。

 

 

 

筒井政利さん。現在92歳、土佐町地蔵寺地区に住んでいる。

筒井さんと私が初めて会ったきっかけは「弓矢」だった。
その弓矢は竹でできていて、ビュン!と音が聞こえるほどよく飛び、子どもたちが嬉しそうに矢を放っていた。
弓矢は誰かが作ったもののようで、矢の先は危なくないように布が巻いてあり中に綿が丸く詰めてあった。縦に細く割った竹の両端は切り込みが入っていて、互いの溝に食い込ませるように紐がぎゅっと結ばれ、弓はしなやかに曲がっていた。

遊ぶ子どもたちを優しいまなざしで見つめている人がいた。
その人に弓矢を作った人は誰なのかと尋ねると、「あ、私です」。
そう答えた人が筒井さんだった。

それから筒井さんは毎年夏のてづくり市に来て、子どもたちに弓矢の作り方を教えてくれるようになった。筒井さんはいつも二つ返事で引き受けてくれる。

その筒井さんが戦争から帰って来た人なのだと誰かから聞いた。
あの穏やかなまなざしで、何を見て何を感じて来たのだろう。
話を聞きたくて、筒井さんの家を訪れた。

 

 

見晴らしの良い高台に筒井さんの家はある。
春らしい日差しに包まれて、家の下の田んぼの脇に植えてある梅の木が白いつぼみをつけていた。
筒井さんは奥さんの重子さんとにこやかに迎えてくれた。

筒井さんが16歳の時だった。

「長男は家で精を出さんといかんけんど、次男はいずれ軍隊に入らんといかんけに。できりゃあ早く入った方がええ。」と学校の先生に言われ、筒井さんは自ら志願して海軍に入った。

在籍していた青年学校のクラスには10数人いて、軍隊へ志願したのは3人。

3人のうちの一人は飛行兵、特攻隊だった。
もう一人は機関兵、その人も死んだ。
生き残ったのは筒井さんだけ。

 

筒井さんに、なぜ海軍を選んだのかを聞いた。
「セーラー服がかっこがいいけね。」

当時は仕事がなく、兵隊になることが一つの仕事のようにも考えられていた。
兵隊には海軍、空軍、陸軍などがあって自分で選ぶことができたのだそうだ。

その「仕事」でたくさんの命が失われた。

筒井さん18歳。最後の写真と思い、佐世保の写真館で撮影した。

 

昭和17年9月、筒井さんは大杉駅(土佐町の中心地から車で30分の最寄駅)から汽車に乗り、海軍の教育を受けるために佐世保へ向かった。一年間、陸で鉄砲をかつぎ、船の甲板を洗い、大砲の油をさし、放水訓練をした。

「行ってからびっくりした。『いらんとこ来た、これはしもうた。』と思った。
棒で叩かれてぎっちりやられた。一人何か悪いことしたら、全員で制裁を受けた。
船で酔うたなんておおごと。『たるんじゅう、全員集まれ!』って言われて甲板に整列させられて文句言われて、叩かれて…。『はように戦争で死んだほうがずっとまし』と思ったね。叩かれてジュクジュク血が出て、えずかったね。
絶対命令は従わなければいかんいうてね。

夜、望遠鏡で見るろ。若いもんはね、眠たくて寝ゆうろ、艦長が来て叩かれる。厳しかったね。
一回入ったらやめられない。やめるなんて国賊よ。おおごと。殺されるよ。」

 

筒井さんの口調が早まり声が大きくなる。

 

 

筒井さんは立ち上がって棚の上に置いてある箱を取り、蓋を開けた。箱には古い写真や地図が入っていて、中から一枚の写真を取り出し机に置いた。
「これがぼくが乗ってた船。駆逐艦皐月(さつき)、1800トンで80人くらい乗る。昭和19年、18歳の時じゃった。マニラ湾で米戦艦の攻撃を受けて沈没した。僕はそれに乗ってて怪我をした。」

駆逐艦皐月。船の真ん中に白い文字で「サツキ」と書いてある。

 

 

筒井さんが広げた世界地図には、筒井さんが船で回った島々が丸で囲まれ、島の名前が筒井さんの字で書き込まれていた。
筒井さんの指が島々を順番にたどりながら、記憶もたどっていく。

ラバウル、ブーゲルビル、クェゼリン…。

聞いたことのある島々がそこにある。
島の名前が記された紙の地図は、筒井さんの現実だった。

 

「広島の呉から商船を護衛しながら硫黄島を経由して、サイパン、グアム、クェゼリン、ミッドウェーへ行った。
武器弾薬を下ろして、また日本の港へ帰る。島づたいにマニラ、シンガポール、ラバウル、ブーゲルビル島…、ここまで行った。弾薬や物資を送らんと…。各島には日本の兵隊がいっぱいおるんじゃけ。
輸送して兵隊たちをおろして、また帰ってきて、また積んで、またほうぼうへ行って…。食べ物や武器、弾薬を持っていかんと。戦争しゆうんじゃけね、弾がないと撃てなあね。」

 

 

武器や弾薬を積んでいる商船を駆逐艦4隻(そのうちの1つが筒井さんが乗っている皐月)で囲み、ぐるぐると回りながら進み商船を守る。

船の甲板から筒井さんが常に気を配っていたのは「潜水艦」の存在だ。

「潜水艦というのは一番めんどい。船の底を来よってよね、1メートルばぁ潜望鏡を出して、見つけたら魚雷を撃っちょいて、ぞうっと引っ込む。ぐっううう、ずうううっときて、当たったらもう防ぎようがない。当たったら船が半分に切れるね。
海は広いけね、どこから潜水艦が来るかわからんのよ。
潜水艦は100メートルくらいはあるんじゃないろうか。
光ってる潜望鏡を見つけたら、弾を込めて撃つ。「らいせき」いうてね、潜水艦のスクリューが舞い戻って来るろ、泡がバーっとなる。それを見つけたら『面舵いっぱーい!』ってこう返す。避けるのよ。はよう見つけたらよけれるのよ。
全速で30キロばぁ行くけね、300メートル奥で見つけたらよけれるね。100メートルじゃ間に合わない。」

 

そこまで話して、筒井さんはふぅ、と小さくため息をついた。
そして思い出したように言った。

「お茶でも飲むかね?」

その声で我に帰る。

筒井さんは席を立ち、戸棚から出した羊羹やおせんべいを机に置いてくれた。
ふと窓の外を見るともう春を迎えた山々がそこにあり、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

75年前もこんな風景だったのだろうか。
筒井さんはこの家から戦争に行ったのだ。

後編に続く)

 

 

 

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土佐町ストーリーズ

松子さんの炭

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「松子さんの炭」が届いた。
30キロのお米が入る袋いっぱいにぎっしりと入っている。
「松子さんの炭はキンキン、キンキンと音が鳴る、とても良い炭やきね。そういう炭は長持ちして火力が強いんよ。」と、届けてくれたみちさんが教えてくれた。

 

2018年2月18日に行った「シルクスクリーン&くるくる市」のイベント。この日、手作りぜんざいを七輪で温めて出すことにした。七輪には炭が必要だが、家にあった分だけでは足りなかったので買うことにした。
もちろんお店で買うこともできたけれど「みちさんに聞いてみよう」と思いつく。

みちさん、こと岡林孝通さんは土佐町の黒丸地区で炭を焼いている。早速電話してみると「僕がつくってるのは竹炭やき、あっという間に燃えちゃうから広葉樹の炭の方がえいと思う。心あたりを聞いてみるから。」と言う。

次の日連絡があった。

「種田松子さんが炭を分けてくれるって。松子さんのご主人が10年前に焼いた炭を大事に取っておいたのがあるから、それを使って、って。」

 

種田松子さん。土佐町役場から車で約50分の山の中、16世帯28人の黒丸地区に住んでいる。

炭を焼いた松子さんのご主人は、8年前に亡くなったのだという。
大切な炭なんやないかな…と言うとみちさんは言った。
「『鳥山さんが炭を分けてほしいって言ってる』と伝えたら、松子さんは『あ、鳥山さんねえ』ってちゃんとわかってた。」

 

少し話をさかのぼる。

2017年7月に黒丸地区で行ったパクチーフェス
その時にたくさんのゼンマイを提供してくれたのが松子さんだった。乾燥させた太くて立派なゼンマイが大きな袋いっぱいに入っていた。その量を作り上げるのにどんなに手間暇かかるか、土佐町で暮らしているとそれはわかる。
せめてものお礼にとパクチーハウス東京の佐谷さんと一緒に家に行き、フェスで作った料理の数々を詰めたお弁当を届けたのだった。
松子さんはその時のことを覚えてくれていた。

 

その7ヶ月後に松子さんから炭を分けてもらうなんてことは、想像もしていなかった。

今までしてきたことがどこかでゆるやかに結ばれて、新たな出来事となって目の前に現れる。

あの時と今は、実はつながっていたのだといつもあとから気づく。

 

 

松子さんはシルクスクリーンのイベントに来てくれたので直接お礼を伝えることができた。「使ってくれてうれしい」という言葉がありがたかった。

 

松子さんの炭でちょうどよく温まったぜんざいをみんなが美味しそうに食べていた。

松子さんのご主人は、自分の焼いた炭が10年後、こんな風に使われることを想像していただろうか?

 

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「一番好きな食べ物はなに?」と聞かれたら「干し芋!」と答えるくらい大好きな干し芋。
今、土佐町の道の駅や産直市にたくさん並んでいます。神奈川県に住んでいた時は真空パックに入った干し芋を買っていましたが、土佐町に来てからは自分で作るようになりました。

作り方は近所の上田房子さんに教えてもらいました。

干し芋のことをこの辺では「干しか」といいます。
房子さんの家の前では、エビラにきれいに並べられた黄色やオレンジ色の干しかが太陽の光を浴びています。
その光景はとても美しく、思わず足を止め、眺めていたくなるほどです。

今の季節、お天気の良い日にはきっと房子さんがかまどに火を入れ、干しかを作る準備をしていることでしょう。


今年も房子さんと一緒に「干しか」を作ることができて、とてもうれしかったです。
真空パックに入った干し芋もこんな風に誰かが手をかけ、時間をかけて作っていたものだったのだということをあらためて感じます。
いかに早く、いかに安く、いかに便利かということが主流になりがちなこの世の中で、房子さんをはじめこの地で生きて来た人たちが今までずっと積み重ねてきたことは、もしかしたら一見目立たなくて地味なことなのかもしれません。
けれどもその中に、人が忘れてはいけない何か大切なこと、かけがえのないことがあるんやないかなと私は思うのです。

 

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土佐町ストーリーズ

春はここにいる

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どっどっどっどっどっど、どっどっどっどっどっど…

「この音、久しぶりに聞いたなあ」と思って振り向くと、向こうの道をトラクターが走っている。

 

ああ、またこの季節がやって来た。

 

2月4日の立春を過ぎた頃から動き出す。

耕運機を載せた軽トラックが走り、田んぼの傍に肥料の袋をたくさん積む人たちがいる。

冬の間、静かだった道がにわかに賑やかになってくる。

 

「ああ、この田んぼ、もう田起こししたんやなあ。」

冬の間、霜がおりて白くなっていた田んぼが耕され、ふっくらしたこげ茶色の土が姿を見せる。

眠っていた大地が目を覚ます。

 

 

遠くで小鳥の鳴き声が聞こえる。きっと、掘り返された土の中から出て来た虫を探しに来たのだろう。

 

春はもう、ここにいる。

 

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土佐町ストーリーズ

福寿草の咲く家

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一月のある日、「家を貸したい」という連絡が土佐町役場に入った。

住所を聞いて地図を片手に家を見に行った。舗装された坂道を上へ上へとあがっていくと途中で道が分かれ、右側の山道の方を行く。それは杉林の間を抜けていく細い道で、まだ雪がたくさん残っていたから車を降りて歩いていくことにした。

私の歩く音が聞こえる。ザク、ザク、ザク…。一歩一歩踏みしめながら歩いていくと、時々、杉林の中からサラサラサラ…という音がする。木に降り積もっていた雪が粉雪となって、小枝を揺らしながら落ちていく。

少し歩くと古い大きな牛舎があった。ところどころ屋根が抜けていて周りの壁がない。牛舎を支える柱が立っているだけの中で誰かが原木しいたけを育てているらしい。駒打ちされた木が何本も立てかけられていた。

さらに歩いていくと、遠くに目を細めるほど真っ白な開けた場所が見えた。そのまぶしさが嬉しくて思わず駆け出した。

 

家はここにあった。
山を切り開いたような場所にある日当たりの良い平屋の家。去年の12月まで大家さんのお母さんがひとりで住んでいたそうだ。そのお母さんは、今、土佐町の町なかに住んでいる。

不思議なもので、今はもう誰も住んでいない家でもその佇まいから、この家でどんな風に暮らしていたのかが伝わってくる。

母屋の勝手口の横にはドラム缶を切って作ったかまどがあった。
「家の裏山には春になったら、ゼンマイやイタドリ、ワラビも出るんよ。」と大家さんは言った。
お母さんがかまどで山菜を茹で、一年中食べられるように保存している姿が目に浮かんだ。

 

大家さんと一緒に裏山を歩いていると、雪の中にはっとするほどきれいな「黄色」を見つけた。

「福寿草!」

思わず声をあげると、大家さんは言った。
「母が大切に育てていてね。最初は小さな鉢植えを買って来てそれを植えた。福寿草は毎年少しずつ株が大きくなっていくんやけど、それを株分けして、また植えて、また植えて…。何年も繰り返してこうなったんよ。もう少ししたら、この裏山一面に福寿草が咲く。」

 

福寿草は春を告げる花。
お母さんは福寿草が咲く時を楽しみにしながら裏山を歩き、畑を耕し、この山の家で暮らしていたのだろう。

 

お母さんは山を降りた。

福寿草の咲く家は、この場所で暮らす人を待っている。

 

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土佐町ストーリーズ

玄関先の一升瓶

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家に帰ったら玄関先に一升瓶が置いてあった。
それが何なのか、誰からなのか、すぐにわかった。
わざわざ家に来てくれたんやなあ、と思いながら玄関の戸を開けて一升瓶をそっと家へ入れる。
一升瓶の口は和紙のような紙で覆われていて麻ひもでリボン結びになっている。ひもをほどいて和紙を取ってみると、古い服をちょきちょき小さく切ったものをきゅ、とねじって栓にしている。これは毎年一緒やなあとなんだか安心する。

この前、我が家のもち米をおすそ分けしたから、醤油の一升瓶と物々交換、ということだ。

 

こんな風に「玄関先になにか届いている」ことが、今まで一体何回あっただろうか。
ちょっと思い返すだけでも、冬は大根や白菜、干しいも。春は山菜、じゃがいも、たらの芽。夏は梅、トマトやカラーピーマン、米ナス、きゅうり、すいか。秋は柿や栗、柚子、さつまいも、しいたけ、なめこ…。季節を問わず、卵やもち米、こんにゃくや味噌、お米、カステラ、梅干し…。
玄関先じゃなくて庭の真ん中に、きゅうりの入った袋とおせんべいがどさっと置かれていた時はびっくりした。
「鶏にやって」と二番米が入った30㎏の米袋2袋や、食べ物じゃないけれど庭にどっさり薪が届いていたこともあった。おさがりの服も。

玄関を開けたらダンボールが置いてあって、手紙とその人が作った野菜と味噌が入っていた時もあった。
(大きな声では言えないが家に鍵をかけてないのだ!)

多分こういうことは私だけじゃなく、土佐町の人たちの間で日常的にあることだと思うのだが、一体どれだけのものがお金のやりとりなしに行き交っているのかなと思う。

都会ではもののやりとりが行われる時にはお金を介在するし、それが当たり前だと思っていた。でも、土佐町に来てからそうじゃないあり方もあるのだということを初めて知った。いただくばかりで何もお返しができていないのだけれど…。

ちょっと多めに作ったから、ちょっとたくさんもらったから、ちょっとたくさん採れたから、あの人に持っていこう。

あの人に持って行こうと思った時に、顔を思い浮かべてもらったんやなあということが何よりうれしい。

 

 

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お知らせ

ただいま70か所

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とさちょうものがたりZINE 01は県内外ただいま70か所の場所に届けられています。

 

その中のひとつ、東京にある「よもぎBooks」さんがこのように紹介してくれていました。

 

こちらは山口県長門市の「ロバの本屋」さん。

 

こんな風に受けとめてくださって、とてもうれしかったです。ありがとうございます。

土佐町からちょっと遠い誰かの元へ。
手から手へ。
このようなやりとりも大切にしていきたいと考えています。

 

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土佐町の人々

40年目の扉

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いつだって美味しいかおりがして、いつだって長野さんがいる。

土佐町地蔵寺地区にある長野商店。店主の長野静代さんは82歳。長野さんが40年前に開いたお店には毎日いろいろな人がやって来る。カラカラカラ…と扉をあけて入って来て、みんな大抵“ちょっと”ゆっくりしていく。

食材を届けに来た業者さんは盛ってもらったおでんを美味しそうに食べ、魚屋さんはコーヒーを入れてもらっている。保険やさんは「お昼はここでいただくんよ。」と嬉しそうにうどんをすすり、小さな男の子は、お菓子をひとつ選んでいいよ、と長野さんに言われてじっくりお菓子を選ぶ。今日が卒業式だったんです、と制服姿の中学生とその子の両親が晴れ姿を見せに来ていた日もあった。

長野さんがいるから、みんながここにやってくる。

 

 

やっとひとり通れるくらいの入り口の向こうに長野さんの調理場はある。
ぼんやりとした黄色の蛍光灯の下にある使い込まれた調理台。シンクの上にある棚には、少しずつ大きさが違う中くらいの鍋が6つほど逆さまにして置かれている。隣には頭の磨り減ったすりこぎが3本、ボウル、押し寿司の木の型。竹の筒には菜箸が何本も入っている。寿司飯を混ぜる飯台やおもちを並べるもろぶた…。すべての道具にみな、それぞれの場所がある。

足元に置かれているストーブの上の鍋はことこと音をたてていて、鍋の中身はおでん、ある時は干したけのこ、またある時はあんこを作るための小豆だったりする。
大きな冷蔵庫には柚子酢が入った一升瓶、干し大根や手づくりの焼肉のたれ、生姜のしそ漬けががずらりと並ぶ。カレンダーにはお弁当やおかず、皿鉢料理の注文がいくつも書かれていた。

長野さんの40年間がこの調理場に確かに存在している。

羊かんに使う棒寒天を溶かす。

 

長野さんの家はお店のすぐ近くにある。長野さんは毎朝3時半に起き、近所の家々がまだ寝静まっている中を歩いてお店にやってくる。
「1日も休んだことはないね。今まで、もうしんどいからやめようと思ったことは全然ない。仕事がなかったらいらいらするくらい。いつも手を動かしよりたいね。」と長野さんは言う。

 

「長野さんが作るさば寿しと皿鉢料理は本当に美味しい」と土佐町の人からよく聞いていた。長野さんの皿鉢料理を初めて見た時のことは忘れられない。中でも、銀色に光るさば寿しの存在感は特別だった。お腹から尾っぽの先までご飯がつまっていて、尾っぽは誇らしげにぴんと立っている。
作り方を教えてほしいと頼むと、長野さんは快く、いいよと言ってくれた。

教えてもらうのが私だけではもったいないから、皿鉢料理とさば寿司の作り方を教えてもらう教室を開くことにした。「たいていのものはできるよ。」と一緒にやろうとしてくれることがとてもありがたかった。

人参と白菜は畑から採ってこようか。
ゼンマイは戻しておかんといかんねえ。
ふきのとうもその辺にあるから採ってこよう。
羊かんの小豆も前の日からコトコト炊いとかんと。
材料も調味料も身近にあるもので…。

相談しながら作るものを決めていくことは本当に楽しかった。
メニューは、さば寿司、山菜寿司、ばってら寿司、なます、白菜と人参の白和え、季節の野菜の天ぷら、羊かん…。

さばは魚屋さんが運んで来てくれるけれど、それ以外は土佐町のものでできることにあらためて驚く。

 

ところが、教室を開く日が近くなった頃、長野さんの右手の筋が切れてしまった。
「長年痛みをこらえて作り続けてきたき、とうとうね…。」と右手を見つめ、手をさすりながら話す長野さんを見るのは切なかった。
考えたすえ、手が治ってからまた教えてほしい、と言おうとお店を訪ねた。この時も長野さんは調理場に立ち、注文の品を作っていた。

手を止めて私の話に耳を傾けると長野さんは言った。「手は大丈夫やき、やりましょう。」

 

 

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