みんなのアルバム

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古味地区の楮はぎ

  • 日時1966(昭和41)年

  • 場所古味

  • 撮影者

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さめうらダム建設の際に、ダムの底に沈んだ古味地区。この写真は、古味地区出身の濱口幸弘さんが見せてくれた一枚です。

写真の裏には「昭和41年.3.12. 楮(こうぞ)はぎ」とメモされています。

楮は「カジ」とも呼ばれ、紙の原料になるものです。山で育てた楮を切り出し、蒸して、皮を剥いで出荷します。この一連の作業「カジ蒸し」は、山の貴重な収入源でもありました。

写真の大人たちは、蒸し上がった楮の皮をせっせと剥いていますね。写真手前の白い枝は皮を剥いだ後の「かじがら」。よく燃えるので今もお風呂の焚き付けなどに使われています。

土佐町の人たちは「子供の頃、よく手伝ったよ。一緒に蒸すお芋を食べるのが楽しみやった」と話す人も多くいます。

皮を剥いでいる大人たちの周りで、子供たちは手伝っているのか、それとも「遊ぼうよ〜」と駄々をこねているのか。どちらにせよ、その幼い眼にこの風景が焼き付いていることは間違いありません。

 

昭和41年の楮はぎ

「早明浦ダム」という本によると、「昭和42年12月15日 」にダムの基礎掘削が開始されたとのこと。

だから「昭和41年の楮はぎ」は、ダムに沈む直前の楮はぎだったのでしょう。

昭和23年生まれの濱口さんは、子供の頃から「古味地区はダムに沈む」と聞いて育ったと言います。「昭和41年の楮はぎ」の時も、もちろん人々は自分達の暮らしている家や土地がダムに沈むことは分かっていたでしょう。それでも、人々は今まで繰り返してきた営みをやめることなく、最後まで自分達の暮らしを続けていたことをこの写真は教えてくれます。

 

 

*「カジ蒸し」は、現在も土佐町の南川地区で行われています。

南川のカジ蒸し(前編)

 

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田井地区の曲がり角

  • 日時1960年代後半(昭和40年代後半)頃

  • 場所土佐町田井地区

  • 撮影者西森五明

  • 投稿者

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これは、土佐町田井地区にある西森理髪店の西森五明さんが見せてくれた写真です。

ときは昭和40年代後半から昭和50年代初めの頃。
 
 

曲がり角の左側

写真左側のお店の店先をよーく見てください。並んでいるのは…、三輪車やボール、多分ビニール製の人形(鹿?)や浮き輪。そう、ここはおもちゃ屋さんです。

お店の名は「岡本菓子店」。お菓子屋さんですがおもちゃも売っていて、毎日子供たちがおこづかいを握りしめ、群がるように来ていたそうです。現在40代の人たちには懐かしい、任天堂のゲーム機「ファミリーコンピューター」も売っていたとのこと。

「窓際のガラスのケースにはプラモデルとか、めっちゃ並んでた。よく行ったわ〜」

当時、岡本菓子店に通ったという人が懐かしそうに話していました。

 

右側は…

右側は、高知県交通の営業所。現在は嶺北観光の営業所になっています。当時、県交通のバスには車掌さんが乗っていて、営業所の二階に寝泊まりしていたそう。かなりの人数の従業員がいて、賑わっていたそうです。

当時は大川村や本川村への路線が走っていて、その路線が廃止されることに。公共交通路線がなくなるのは困るということで、現在の嶺北観光ができたそうです。時代と共に、自家用車を持つ人が増えていった頃だったのでしょう。

 

現在の曲がり角

現在の様子はこちらです。

写真左側、かつてあった岡本菓子店はもうありません。右側の県交通のあった場所は、嶺北観光の営業所があります。

この曲がり角で多くの人たちが行き交い、話し、遊び…。時には旅に出たり、帰ってきた人を迎えたりしていたのでしょう。この場所は、人の思いや人生の交わる交差点でもあったのです。

 

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田井橋

  • 日時1964(昭和39)年

  • 場所土佐町田井地区 田井橋

  • 撮影者

  • 投稿者

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昭和39年に撮影されたこの写真は、土佐町田井地区の西森理髪店の店主・西森五明さんが見せてくれたものです。

この写真は橋の上から通りに向けて撮影されていますが、この橋の名前を「田井橋」といいます。

町の人と話していて、「ほら、あの辺りよ。田井橋らへん」と言われたら、「ああ、あの田井橋の辺りにあるのか」と、頭に田井橋周辺の地図が浮かびます。ちょっとした目印のような、頼りになる存在です。

田井橋から見たこの通りは、当時「大橋通り」と呼ばれていたそう。

「昔は、この道は賑やかやったのよ」と誰もが口を揃えて言うように、店の看板が立ち並ぶ様子が見えます。

 

こちらは現在の「大橋通り」。橋の欄干の形も変わっていますね。

昭和39年当時と比べると閉店したお店も多く、人通りは少なくなりました。

けれども今も商いを続けているお店は数々あり、通りに明かりを灯しています。田井地区に住む人たちや子供たちの通学路としても、欠かせない「田井橋」、「大橋通り」です。

 

【土佐町の絵本】写真集め ②

 

 

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山中百貨店

  • 日時1955年(昭和30年)頃

  • 場所土佐町田井

  • 撮影者

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土佐町田井地区にある「清水屋旅館」と「冨士見館」が建つ道は、かつての土佐町のメインストリート。バスが走り、店が並び、多くの人が行き交う通りでした。

この写真は、その清水屋旅館と冨士見館の向かいにあった「山中百貨店」の写真です。この「山中百貨店」がご実家であり、ここで生まれ育った西村富美子さんが写真を見せてくれました。

山中百貨店は今から13年前に閉店、今はお店だけが残っています。

 

仕立て屋・山中百貨店

店先に並んでいるのは洋服の生地です。山中百貨店は仕立て屋さんもしていて、お客さんに生地を選んでもらって洋服を作っていたとのこと。当時は既成の服はほとんどない時代。「昔はみんなそうだった」と富美子さんは話してくれました。

写真左の男性が富美子さんのお父さんの山中康富さん。右がお母さんの和美さん。店員さんや洋服を作る「洋裁さん」も並び、皆んなで記念撮影。子供たちは大人が商いをする姿を見ながら大きくなっていったのでしょう。賑やかな声が聞こえてくるようです。

 

現在の山中百貨店

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冨士見館

写っている人
  • 日時1920年代(昭和初期)

  • 場所土佐町田井

  • 撮影者

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土佐町田井地区にある冨士見館。「私のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんが大正5年(1916年)に創業した」と4代目の女将、高橋信子さんが話してくれました。

写真は昭和初期のもの。冨士見館はこれまでに何度か改修したそうですが、建物は今も当時のままです。

この頃、遠くから荷物を運ぶ「馬車引き」さんがたびたび宿泊していたのだそう。

 

金魚屋さんも宿泊

昭和35年から40年頃、信子さんが小学生だった時には「金魚屋さん」が宿泊。袋に入れた金魚を持って、年に数回来ていたそうです。肩に担ぐ竿と金魚を入れる桶はいつも富士見館に置いてあったそう。土佐町に来たら、決まって富士見館に泊まっていたのでしょうね。

「乾物屋さん」も訪れ、竿の前後に下げた缶にはするめやお酒のつまみのようなものが入っていて、「おばあちゃんが、どれにしようかねえ、と選んでいた」。信子さんは、懐かしそうに話してくれました。

 当時、冨士見館は旅館業の他にも、魚屋さん、仕出し屋さん、そして銭湯も営んでいました。

早明浦ダム建設が始まって旅館業が忙しくなり、銭湯は閉めることに。けれども、当時はお風呂がない家もまだ多かったため「銭湯をやめないで」と町の人から署名も届いたそうです。悩みに悩んだ末、やはり人手がなく、銭湯は閉めることにしたとのこと。

 

創業から106年、冨士見館は土佐町に訪れた人たちを温かく迎える宿として、今もこの場所に在り続けています。

 

髙橋信子・英理子 (田井 冨士見館)

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清水屋旅館

写っている人
  • 日時昭和30年代頃

  • 場所土佐町田井

  • 撮影者

  • 投稿者

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土佐町田井地区にある清水屋旅館。現在90歳の森ミネさんが切り盛りする宿です。

築100年以上になるという建物は、正面の引き戸を開けると広い玄関、一段上がった奥には2階へ上がる階段があります。

玄関左側には和室があり、窓際の机にミネさんのミシンが置かれています。ミネさんは洋服の直しを請け負っていて、近所の人が「ズボンの裾を直して」とよく持ってくるのだそう。「私はこの仕事が好きでね。昔は旅館の仕事が忙しくて、両立するのが本当に大変だった」と話してくれました。

この写真は昭和30年代頃に撮影されたもの。雨漏りで屋根を改修したため現在の屋根とは異なりますが、それ以外は当時のまま。薪で沸かすお風呂も健在です。

 

旅館に面した通りは車が一台通れる程の道幅で、当時の土佐町のメインストリート。人が行き交い「バスが、旅館の壁擦れ擦れに通って行った」のだそう。

近くに国道439号線が通り、人の流れや生活は大きく変化。かつて賑やかだった通りには数軒の店が残り、当時の面影を伝えています。

 

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百足(ムカデ)の薬、販売中?

  • 日時1960年頃

  • 場所森地区

  • 撮影者上田英一

  • 投稿者

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土佐町の森地区には、かつて上田百貨店というお店がありました。この「みんなのアルバム」のコーナーでは、上田百貨店の主だった上田英一さんが撮影した写真を何度か紹介させていただいています。英一さんは現在92歳。写真が好きだったこともあり、何冊ものアルバムをお持ちです。

今回の写真は、かつての上田百貨店前の通りの写真です。店の白い看板に「上田百貨店」の文字が見えます。当時、この通りには豆腐屋や貸本屋、銭湯などたくさんのお店が並び、人が賑やかに行き交っていたそうです。上田百貨店の前に立っているのぼりに「百足」という文字とムカデの絵が書いてあります。「ムカデが家に入ってこないようにする薬を売ってますよ〜」という宣伝なのでしょうか?(どなたか知っている方がいたらぜひ教えてください!)

 

こちらは現在の上田百貨店。10年前に閉店し、建物だけが残っています。豆腐屋や貸本屋、銭湯などはもうありません。

この道を通るたび、かつてのこの道で聞こえていただろう賑やかな声や、道ゆく人の姿が見えるような気がします。

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いらっしゃいませ!

  • 日時1960年頃

  • 場所上ノ土居

  • 撮影者上田英一

  • 投稿者

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この写真は、土佐町の森地区に住む上田英一さんのアルバムの一枚です。英一さんは現在92歳。10年ほど前まで、森地区で上田百貨店という商店を営んでいました。

上田百貨店は1976年(昭和51)にオープン。オープンの日にはバスを借りて439号線を走らせ、本山町から土佐町石原地区までの道々で待つお客さんを乗せたそうです。日用品をはじめ、家具や建築資材も取り扱っていて、朝は店の前に何台ものトラックが横付けされ、建築資材を積んでいったそう。
「それはそれは賑やかだったよ」
近所の人がそう話してくれました。
写真の左から2番目の男性が英一さん。従業員の人たちとの記念写真から、「いらっしゃいませ!」という声が聞こえてきそうです。
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軍需工場へ

  • 日時1944年(昭和19年)

  • 場所広島県呉市

  • 撮影者広島県呉市の写真館

  • 投稿者

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土佐町地蔵寺地区に住んでいる筒井重子さん、現在93歳。

重子さんは土佐町栗木地区出身。終戦の2年ほど前、当時16歳だった重子さんは志願して広島県呉市の軍需工場へ赴きました。きっかけは高知県から届いた軍需工場で働く人を募集する案内。父親に行きなさいと言われたこともあり、「行かないかん」と思った重子さんは手を挙げました。この時、高知県からは重子さんの他に30人ほど軍需工場へ向かったそうです。

この写真は、軍需工場の寄宿舎で一緒だった友人たちとの1枚。真ん中が重子さん。軍需工場の制服を着ています。寄宿舎から歩いて30分ほどの場所にあった写真館で撮影したそうです。

軍需工場で重子さんは特攻機や魚雷艇の組み立てを担っていました。夜、空襲警報が聞こえるたび山の防空壕へ避難。入口は一つ、奥に向かって長く掘られた防空壕の中に100人以上の人が逃げ込んだそう。入口を閉め、息を潜めていると酸素が薄くなって苦しくなってくる。たまらず外へ飛び出して、土橋の下へ隠れた時、降り注ぐように落ちてきた焼夷弾が橋を貫通したこともあったそうです。一面焼け野原にする焼夷弾。毎日「もう今日が最後かなあ」と思っていたといいます。

米軍が沖縄へ上陸した際、友人と「戦争は負けるわね」と話していた時のこと。それを耳にした将校が「負けるもんか!戦争は勝つんだ!お前はどこの部隊の誰だ!!」と激怒。他の将校がかばってくれたこともあったそう。

重子さんのご主人である筒井政利さんも、そばでこの話を聞いていました。政利さんも海軍の兵隊として従軍しました。

「わしらは難儀しゆうぜよ」

ふとつぶやいたその言葉に、もう二度と戦争を繰り返してはならぬという思いを新たにしました。

 

 

筒井政利・重子 (地蔵寺)

 

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続・野中祭の1日

  • 日時1960年頃

  • 場所上ノ土居

  • 撮影者上田英一

  • 投稿者

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この写真は、土佐町の森地区に住む上田英一さんのアルバムの一枚です。
背後に見える店は「上田百貨店」。現在92歳の英一さんがかつて営んでいたお店です。
 
森地区では、毎年「野中祭」と呼ばれるお祭りが開かれます。これは野中祭当日の一枚。英一さんのお話では、昔は昼間から踊り子さんが集まって地区内の道を踊りながら進み、お祭りの会場まで向かったそう。この男性の着ているハッピには、土佐町の酒蔵・土佐酒造の文字が。顔にも何か描いてあるような…。 子どもたちも、大人たちもねじり鉢巻で楽しそうですね!
 
今年はコロナ禍で、野中祭も他のお祭りも中止になりました。来年こそ、皆が笑顔でお祭りができますように!

 
 

野中祭の1日

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