みんなのアルバム

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だるま負い競技

  • 日時昭和32年

  • 場所旧地蔵寺小学校

  • 撮影者

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今回の一枚は、旧地蔵寺小学校(現  地蔵寺支所)にあったアルバムから。

1957(昭和32)年5月5日に行われた「子どもの日運動会」。「PTAと職員のだるま負い競技」の写真です。

白いかっぽう着を着て、もんぺ?をはいている人、スカートの人、スーツのズボンの人。皆、思い思いの格好です。だるまをバトン代わりに真剣勝負。だるまの受け渡しが難しそうです!

周りの子供たちも立ち上がって見ています。「頑張れー!」子供たちの応援する声が聞こえてきそう。子供たちにとって、親と先生の競技は盛り上がりますよね!

 

こちら、現在の地蔵寺支所の校庭です。先ほどの写真の背景にあった、白い壁の建物や石垣は健在です。東家の建っている場所には、かつて相撲の土俵がありました。

地蔵寺の人たちの賑やかな声が、今でも聞こえてくるようです。

 

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こちら、すみれ子供郵便局!

  • 日時昭和40年代(1960年代中頃〜1970年代中頃)

  • 場所旧地蔵寺小学校

  • 撮影者

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今回の一枚は、旧地蔵寺小学校(現  地蔵寺支所)にあったアルバムから。

「新しくできた預金室での初預入れ」という覚書が添えられた写真です。

時は、昭和40年代(1960年中頃〜1970年中頃)、旧地蔵寺小学校には「すみれ子供郵便局」がありました。

1週間に一回、「貯金の日」があり、その日にはお小遣いと自分の通帳を持って校舎内の「すみれ子供郵便局」へ。

郵便局の窓口で働いているのは子供たち。お金を数え、通帳に貯金額を記入、お金を金庫に保管するという重要な役割を果たしていました。写真をよく見ると、筆や鉛筆で記入している様子がわかります。顔は真剣そのもの!

金庫に入れたお金は、本物の郵便局員さんが取りに来て、郵便局で保管していたとのこと。修学旅行の資金にしていた子供もいたとか。

なんとも面白い取り組み!

この「すみれ子供郵便局」は1951(昭和26)年から始まり、1971(昭和46)年10月には「優良子ども銀行」として表彰され、子供たちは旧大蔵省で賞状をもらったそうです。

窓口を訪れた子供たちの羨望の眼差し(?)を受けながら、「窓口」「検査」の仕事に取り組むすみれ子供郵便局員

約60年後、キャッシュレスで買物する時代になろうとは、この頃は想像もしていなかったはず。今の子供たちも「すみれ子供郵便局」のような取り組みをやれたらいいですね。実際にお金のやり取りをし、責任と自覚を持って自分でお金を管理する経験は、将来きっと役に立つはずです。

もし今も「すみれ子供郵便局」の通帳を持っているよ〜!という方がいましたら、ぜひ、とさちょうものがたり編集部へご一報ください!

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最後の運動会

  • 日時1967(昭和42)年

  • 場所土佐町 大河内小中学校

  • 撮影者濵口幸弘さんのお父さん

  • 投稿者

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「たばこの火つけ」「剣」「上を向いて歩こう」「号砲一発」…。なにやら興味深い名目の下に、お馴染み「リレー」「綱引」の文字が見えます。これは、早明浦ダム建設時にダムの底に沈んだ大河内小中学校、最後の運動会の写真です。写真の裏側には「S42.10.1」と書かれています。

写真を見せてくれたのは、土佐町に住む山師・濵口幸弘さん。写真は濵口さんのお父さんが撮影したものです。

 

大河内小中学校

大河内小中学校は、土佐町の「上津川」「下川」「井尻」「古味」「柚の木」地区の子どもたちが通う学校でした。古味地区に生まれ育った濵口さんもこの学校に通っていました。幼い時から「この地区はダムの底に沈む」と聞きながら育ち、地区内には「ここは湖面になる」という標識が立てられていたそうです。濵口さんは「ここにはおり続けることができん」という思いがずっとあったと言います。

近い将来、自分が立っている場所がなくなる。いつもそのことを頭のどこかで意識しながら暮らす。それはどんな感覚だったのでしょうか。

 

最後の運動会

当時、運動会は子どもたちだけではなく地域の人たちも参加する一大イベントだったそうです。大河内小中学校がダムに沈む前の最後の運動会、地区別対抗戦も大いに盛り上がったことでしょう。

昭和41年から43年に、ダム建設側の水資源機構と土地の持ち主との間で交渉が行われたとのこと。この運動会もその最中に行われていたことになります。

こちらも同じアルバムにあった一枚。パン食い競争でしょうか?1枚目の写真の種目表の中の「上を向いて歩こう」がこれにあたるのでしょうか?

 

こちらの写真の裏側にも同じ日付が入っていました。朝礼台に立った人が見えます。体操をしているのでしょうか?これは子どもたちだけ写っているようですが、子どもたちだけで100人位いるようです。かつての子どもたちや地区の人たちは、今、どうしているのでしょう。

 

仮に、自分ではどうすることもできない「決定事項」があるとして、それが自らの意思に沿う沿わずなど関係なく「決定事項」として目の前に出された時、人はどう行動するのでしょう。自分だったらどうするか?どんな思いを抱くのか?

そういったことを考えさせられた写真でした。

 

濵口幸弘さんの場合

 

 

 

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1956年の田井

  • 日時1956(昭和31)年

  • 場所土佐町田井

  • 撮影者

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山々の麓に田畑が広がる一枚の写真。さて、ここはどこでしょう?

山の形にご注目。よくよく見れば、どこかで見たような…。

そう、この場所は、1956年(昭和31年)の土佐町田井地区です。右に吉野川が流れています。

土佐町で畳店を営む、谷さんが写真を見せてくれました。

以前「みんなのアルバム」で紹介した、「清水屋旅館」「冨士見館」「山中百貨店」は、写真中央左側の道沿いにあります。ここがかつての土佐町のメインストリートでした。

 

こちらは現在の田井地区。右には1973年(昭和48年)に完成した早明浦ダムの堰堤が見えます。広がっていた田畑の真ん中に国道439号線が走り、両側に店や家々が並んでいます。

この国道ができたことで、人の流れも生活も大きく変わりました。

変わらないのは、町を見守り続けてきた山々です。土佐町の山々は、65年後の今の町の姿をどんな風に見ているのでしょう。

 

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古味地区の楮はぎ

  • 日時1966(昭和41)年

  • 場所古味

  • 撮影者

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さめうらダム建設の際に、ダムの底に沈んだ古味地区。この写真は、古味地区出身の濱口幸弘さんが見せてくれた一枚です。

写真の裏には「昭和41年.3.12. 楮(こうぞ)はぎ」とメモされています。

楮は「カジ」とも呼ばれ、紙の原料になるものです。山で育てた楮を切り出し、蒸して、皮を剥いで出荷します。この一連の作業「カジ蒸し」は、山の貴重な収入源でもありました。

写真の大人たちは、蒸し上がった楮の皮をせっせと剥いていますね。写真手前の白い枝は皮を剥いだ後の「かじがら」。よく燃えるので今もお風呂の焚き付けなどに使われています。

土佐町の人たちは「子供の頃、よく手伝ったよ。一緒に蒸すお芋を食べるのが楽しみやった」と話す人も多くいます。

皮を剥いでいる大人たちの周りで、子供たちは手伝っているのか、それとも「遊ぼうよ〜」と駄々をこねているのか。どちらにせよ、その幼い眼にこの風景が焼き付いていることは間違いありません。

 

昭和41年の楮はぎ

「早明浦ダム」という本によると、「昭和42年12月15日 」にダムの基礎掘削が開始されたとのこと。

だから「昭和41年の楮はぎ」は、ダムに沈む直前の楮はぎだったのでしょう。

昭和23年生まれの濱口さんは、子供の頃から「古味地区はダムに沈む」と聞いて育ったと言います。「昭和41年の楮はぎ」の時も、もちろん人々は自分達の暮らしている家や土地がダムに沈むことは分かっていたでしょう。それでも、人々は今まで繰り返してきた営みをやめることなく、最後まで自分達の暮らしを続けていたことをこの写真は教えてくれます。

 

 

*「カジ蒸し」は、現在も土佐町の南川地区で行われています。

南川のカジ蒸し(前編)

 

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田井地区の曲がり角

  • 日時1960年代後半(昭和40年代後半)頃

  • 場所土佐町田井地区

  • 撮影者西森五明

  • 投稿者

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これは、土佐町田井地区にある西森理髪店の西森五明さんが見せてくれた写真です。

ときは昭和40年代後半から昭和50年代初めの頃。
 
 

曲がり角の左側

写真左側のお店の店先をよーく見てください。並んでいるのは…、三輪車やボール、多分ビニール製の人形(鹿?)や浮き輪。そう、ここはおもちゃ屋さんです。

お店の名は「岡本菓子店」。お菓子屋さんですがおもちゃも売っていて、毎日子供たちがおこづかいを握りしめ、群がるように来ていたそうです。現在40代の人たちには懐かしい、任天堂のゲーム機「ファミリーコンピューター」も売っていたとのこと。

「窓際のガラスのケースにはプラモデルとか、めっちゃ並んでた。よく行ったわ〜」

当時、岡本菓子店に通ったという人が懐かしそうに話していました。

 

右側は…

右側は、高知県交通の営業所。現在は嶺北観光の営業所になっています。当時、県交通のバスには車掌さんが乗っていて、営業所の二階に寝泊まりしていたそう。かなりの人数の従業員がいて、賑わっていたそうです。

当時は大川村や本川村への路線が走っていて、その路線が廃止されることに。公共交通路線がなくなるのは困るということで、現在の嶺北観光ができたそうです。時代と共に、自家用車を持つ人が増えていった頃だったのでしょう。

 

現在の曲がり角

現在の様子はこちらです。

写真左側、かつてあった岡本菓子店はもうありません。右側の県交通のあった場所は、嶺北観光の営業所があります。

この曲がり角で多くの人たちが行き交い、話し、遊び…。時には旅に出たり、帰ってきた人を迎えたりしていたのでしょう。この場所は、人の思いや人生の交わる交差点でもあったのです。

 

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田井橋

  • 日時1964(昭和39)年

  • 場所土佐町田井地区 田井橋

  • 撮影者

  • 投稿者

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昭和39年に撮影されたこの写真は、土佐町田井地区の西森理髪店の店主・西森五明さんが見せてくれたものです。

この写真は橋の上から通りに向けて撮影されていますが、この橋の名前を「田井橋」といいます。

町の人と話していて、「ほら、あの辺りよ。田井橋らへん」と言われたら、「ああ、あの田井橋の辺りにあるのか」と、頭に田井橋周辺の地図が浮かびます。ちょっとした目印のような、頼りになる存在です。

田井橋から見たこの通りは、当時「大橋通り」と呼ばれていたそう。

「昔は、この道は賑やかやったのよ」と誰もが口を揃えて言うように、店の看板が立ち並ぶ様子が見えます。

 

こちらは現在の「大橋通り」。橋の欄干の形も変わっていますね。

昭和39年当時と比べると閉店したお店も多く、人通りは少なくなりました。

けれども今も商いを続けているお店は数々あり、通りに明かりを灯しています。田井地区に住む人たちや子供たちの通学路としても、欠かせない「田井橋」、「大橋通り」です。

 

【土佐町の絵本】写真集め ②

 

 

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山中百貨店

  • 日時1955年(昭和30年)頃

  • 場所土佐町田井

  • 撮影者

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土佐町田井地区にある「清水屋旅館」と「冨士見館」が建つ道は、かつての土佐町のメインストリート。バスが走り、店が並び、多くの人が行き交う通りでした。

この写真は、その清水屋旅館と冨士見館の向かいにあった「山中百貨店」の写真です。この「山中百貨店」がご実家であり、ここで生まれ育った西村富美子さんが写真を見せてくれました。

山中百貨店は今から13年前に閉店、今はお店だけが残っています。

 

仕立て屋・山中百貨店

店先に並んでいるのは洋服の生地です。山中百貨店は仕立て屋さんもしていて、お客さんに生地を選んでもらって洋服を作っていたとのこと。当時は既成の服はほとんどない時代。「昔はみんなそうだった」と富美子さんは話してくれました。

写真左の男性が富美子さんのお父さんの山中康富さん。右がお母さんの和美さん。店員さんや洋服を作る「洋裁さん」も並び、皆んなで記念撮影。子供たちは大人が商いをする姿を見ながら大きくなっていったのでしょう。賑やかな声が聞こえてくるようです。

 

現在の山中百貨店

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冨士見館

写っている人
  • 日時1920年代(昭和初期)

  • 場所土佐町田井

  • 撮影者

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土佐町田井地区にある冨士見館。「私のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんが大正5年(1916年)に創業した」と4代目の女将、高橋信子さんが話してくれました。

写真は昭和初期のもの。冨士見館はこれまでに何度か改修したそうですが、建物は今も当時のままです。

この頃、遠くから荷物を運ぶ「馬車引き」さんがたびたび宿泊していたのだそう。

 

金魚屋さんも宿泊

昭和35年から40年頃、信子さんが小学生だった時には「金魚屋さん」が宿泊。袋に入れた金魚を持って、年に数回来ていたそうです。肩に担ぐ竿と金魚を入れる桶はいつも富士見館に置いてあったそう。土佐町に来たら、決まって富士見館に泊まっていたのでしょうね。

「乾物屋さん」も訪れ、竿の前後に下げた缶にはするめやお酒のつまみのようなものが入っていて、「おばあちゃんが、どれにしようかねえ、と選んでいた」。信子さんは、懐かしそうに話してくれました。

 当時、冨士見館は旅館業の他にも、魚屋さん、仕出し屋さん、そして銭湯も営んでいました。

早明浦ダム建設が始まって旅館業が忙しくなり、銭湯は閉めることに。けれども、当時はお風呂がない家もまだ多かったため「銭湯をやめないで」と町の人から署名も届いたそうです。悩みに悩んだ末、やはり人手がなく、銭湯は閉めることにしたとのこと。

 

創業から106年、冨士見館は土佐町に訪れた人たちを温かく迎える宿として、今もこの場所に在り続けています。

 

髙橋信子・英理子 (田井 冨士見館)

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清水屋旅館

写っている人
  • 日時昭和30年代頃

  • 場所土佐町田井

  • 撮影者

  • 投稿者

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土佐町田井地区にある清水屋旅館。現在90歳の森ミネさんが切り盛りする宿です。

築100年以上になるという建物は、正面の引き戸を開けると広い玄関、一段上がった奥には2階へ上がる階段があります。

玄関左側には和室があり、窓際の机にミネさんのミシンが置かれています。ミネさんは洋服の直しを請け負っていて、近所の人が「ズボンの裾を直して」とよく持ってくるのだそう。「私はこの仕事が好きでね。昔は旅館の仕事が忙しくて、両立するのが本当に大変だった」と話してくれました。

この写真は昭和30年代頃に撮影されたもの。雨漏りで屋根を改修したため現在の屋根とは異なりますが、それ以外は当時のまま。薪で沸かすお風呂も健在です。

 

旅館に面した通りは車が一台通れる程の道幅で、当時の土佐町のメインストリート。人が行き交い「バスが、旅館の壁擦れ擦れに通って行った」のだそう。

近くに国道439号線が通り、人の流れや生活は大きく変化。かつて賑やかだった通りには数軒の店が残り、当時の面影を伝えています。

 

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