山峡のおぼろ

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田ウナギ

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川でウナギをとるのは当然だが、懐かしく思い出すのは、田でとったウナギのことである。

と言っても、田の中にいつもウナギが居るわけではない。田へウナギをとりに行ったのは、大雨のあとであった。それも渓流から水を引き込んでいる田である。

渓流から田まで、狭い溝で水を引き入れていた。相当長い区間のものもあれば、渓流からすぐ近くで直結している田もあった。そういう田や溝へ大雨のあと、とくに夜激しく降ったあとの朝に、網と金突きを持って走った。

大雨で増水した渓流の水が、溝に勢いよく流れ込み、それが田に入っている。その水の中にウナギが居ることが多かった。

どうして溝にまぎれ込んできたのかは判らなかった。子供心に、大水に押されて、抵抗できずに迷い込んだのか、何か餌を追っかけてここまで来たのかと、色々想像をめぐらせた。

狭い溝だから、水が澄んでいる時はウナギを見つけやすかった。それを網ですくったり、網をこわがって逃げ回る時は、金突きで突いてとった。

溝に入ってウナギを追っていると、別のウナギが足に当たって逃げて行ったり、めったにないことだったが、右往左往逃げるウナギを踏みつけたこともあった。そのぬらりとした感触は、今も足に残っている。

ウナギは田にまで入り込んでいたが、稲があるので、田に入って追っかけるわけにはいかない。稲を踏みつけたり、網で倒してしまうので、その時は畦から、長い柄を付けた金突きで突いてとった。

水が溝や田から溢れている時は、ウナギが道に飛び出していることもあった。これはとるのが簡単で、くねくね暴れているのに網をかぶせてとった。

水が引いたあとも、何日かは目が放せなかった。溝に居たウナギは渓流に返ったが、田に入ったのは引く水に乗り切れず、田に残ったままになっていた。

出口を探してバチャバチャと水音をたてているウナギはすぐに判って、金突きで突いた。そのあとは田の畦を歩き回って、稲の間を丹念に探した。

今は田も少なくなり、渓流のウナギも激減した。

楽しかった体験は、思い出の中にあるだけである。

 

 

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岩屋に入って

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渓流には大きな岩が多い。家ほどの大岩もある。洞穴のあいた岩もあり、それは「岩屋」と呼ばれていた。

子どもの頃から夏には潜って、アメゴを突いた。

山の渓流は冷たいので、しばらく潜ると唇が紫色になる。そうなれば、手足も動かすのがしんどく、漁にならない。そんな時は、大きな岩の上に腹這いになる。いわゆる甲羅干しである。

そうして、夏の日を溜めた岩で腹を温め、背中は陽光に当てる。そして体力と気分が戻ればまた潜る。それを何度もくり返した。

 

岩の思い出は色々あるが、自分としては雷鳴の時の、恐怖感を伴った思いが消えない。

渓流に入っている時や、その行き帰りに雷に遭うことは珍しくなかった。

大体は余り近くに迫ることなく終るが、必死の思いで岩屋に逃げ込んだことも何度かあった。

まぶたに突き刺さるような稲光りが走り、地響きがするような雷鳴が、いきなり山を震わせることがあった。

狭い山間だから、その音は腹を殴られたような衝撃である。

すぐに近くの岩屋へ走り、金突鉄砲などの金属類を離れた場所に置き、岩屋内へころがり込むように入った。

そして岩屋の奥で身を縮めながら、稲光りと雷鳴が遠ざかるのを待った。

ピカピカ、バリッという稲光りと、腹にドカッと来る雷鳴までの不気味な緊張は、今も身体が覚えている。

ひどい雷鳴の時は振動を伴って、地震に遭ったようだった。

稲光りがした時、岩屋の中から外を見ると、杉や桧、その他の葉が不気味に光っていた。

 

旧制中学校の同窓会でそのことを話すと、山育ちの友人たちの殆どが、

「俺も岩屋へ逃げ込んだよ。雷はこわかったなあ」

と言う。

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朝霧

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山村にはよく霧がかかる。朝も夜も、霧についての思い出は多い。

その中で、自分として一番頭に残っているのは朝霧である。小学生の頃、自分が好きなことをしたのが、朝霧の濃い時間帯であったからかもしれない。

梅雨の頃から夏にかけてよく、うなぎをとるために「つけ針」をした。広辞苑では「置鉤」と出ているが、自分たちはつけ針と言っていた。

今のようにナイロン・ポリプロピレンの強靭な糸はなかったので、紡績に釣針を結びつけた。それに餌としてゴリやカンタロウミミズをつけ、夕方に川のここと思う所につけておく。一方の端は柳の枝などへ頑丈に結びつけた。

翌朝、朝食前にそれを上げに行く。学校に行く頃は霧が薄くなっているが、その頃はまだ村が濃霧に沈んでいるようで、10メートル先も定かでなく、手さぐりで歩む気分だった。それでもつけ針に食いついたうなぎを想像して、胸躍る気分だった。

前方に人影らしいものがぼんやり。水車で搗いた米を持って帰る人だろう。水車帰りの人には、この時間によく会う。

米を背負って、うつむき加減に来るので、なかなか私に気付かない。4,5メートルに近付いて、おばあさんと判った。

「ああ、びっくりした。つけ針上げかね。食いついちょったらええがねえ。霧で見えんきに、気をつけよ」

自分の孫に言うように言われ、すれ違った。

同じようにつけ針上げに行く人ともよく会った。

「食いついちょったらええが」

互いに同じようなことを言い合った。

川に着くと、水面に顔をくっつけるようにしてつけ針の場所を確かめ、1本1本上げてゆく。糸が流れてゆらゆらしていると空振りだが、ぴーんと張って岩の下に引き込まれていたら「よっしゃあ」と小声で言って引っぱり上げ、魚篭に入れた。うなぎはぬめりがある上にくねくね暴れるので針をはずしにくく、紡績も一緒に魚篭に押し込んだ。

10か所以上につけたが、1か所も見落しがなかった。子供心にも、絶対に覚えておけよと、自分自身に言い聞かせていた。

帰る頃はまだ霧が晴れ切っていなかったので、魚篭を持ったまま川の中で転んではいけないと、注意に注意を重ねて歩いたことであった。

霧のことを話した時に、植林好きの祖父がよく、

「夏は水分が少ないきに、朝から日が照りつけたら木にこたえる。霧で朝と晩に水分を補給してやるきに、夏でも元気に伸びるのよ。天の恵みじゃ」

と、何度も言っていたことを、今もよく覚えている。

 

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迎え火・盆飯

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盂蘭盆初日の迎え火。特に山村に育った人には思い出も多いのではなかろうか。山村の家々から、幻想のように夜を彩った松明の火が、今も頭から離れない。

夕闇が村を包み始める頃、あの家この家から、松明の火が見えはじめる。

すっかり闇になると、赤味がかった火が、家々の存在を示す。幽玄ともいえる情趣を添えて、しばし夜の村を彩り続ける。

私の子供の頃は今と違って、どの家にも働き手が居た。若い男の子は入隊していても、親はまだ元気だった。その人たちが、盆が近付くと松明を作った。やにをたっぷり含んだ松を集め、直径50センチもの大松明を作るのである。

松明が大きいだけに、一時間かそれ以上の時間燃えた。

それが一軒、また一軒と燃え終わり、全戸の松明が消えたあとの闇の中の村は、何とも言いようのない静寂であった。

翌朝、子供たちには楽しい行事があった。

“盆飯”(ぼんめし)を炊くのである。

地区のがき大将の命令一下、子供たちは手分けして家々に走り、燃え残りの松を集めて回った。そして釜や米を持ち寄り、それらを持って渓流の河原に集合し、飯を炊いた。

盆飯を食うと息災になる、との言い伝えによる行事だが、何と言っても朝の渓流である。涼しい上に空気が澄んでおり、朝霧もまだ残る環境で、飯がうまい。息災になるのは当たり前のような気がした。

夢まぼろしに近い郷愁である。

 

※写真は上津川の高橋通世さんのお家での迎え火を撮影させていただきました。ありがとうございました。

 

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爪・髪の毛

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あの日のことは、今でもはっきり覚えている。昭和18年(1943)、小学校5年生の時であった。学校から帰ると、祖母と母が縁側に腰掛けて泣いていた。祖父は山へ仕事に出ていた。私をみて祖母が何か言ったが、涙声で何を言っているのか判らなかった。

近付いて行くと祖母から、

「お父ちゃんから、こんな手紙が来たんよ。読んでみて」

と、一枚の便箋を渡された。3行か4行の短い言葉が書かれていた。楷書で、子どもの頃の私にも意味がわかった。

「今は元気だが、自分にもしものことがあれば、これを身代わりと思って下さい」

ということが書かれていた。大変な話だが、身代わりとは何だろうと思い、祖母を見ると、横から母が、

「これを見てみ」

と言い、

「ゆっくりと開けんといかんぞね」

と、小さな紙包みを渡してくれた。白紙を折りたたんで包んだものが二つだった。

開けようとすると母は、新聞紙を広げて縁側に置き、それを指さして、

「この上で、そろそろ開けて」

と、震えを帯びたような口調で言った。

 

中に大事なものが入っていて、それが落ちてはいけないのだと、子ども心にも察せられたので、新聞紙の上でゆっくり白紙を開いた。開きながら、妙に胸が騒いだ。祖母と母の表情がそうさせたのかもしれない。

まず出て来たのは、爪であった。もちろん父の爪だと思った。両手の指の爪を全部つんだと思われる数であった。

もう一つの包みからは、短く切った髪の毛が出てきた。兵隊は丸刈りだから、それを切った髪の毛はほんとに短いものであった。

これを送ってくるとは、ただごとではないという思いが、じわりと身体中に広がった。

 

母は時々声をつまらせながら、

「もし戦死しても、遺骨は届かんやろ。これを送るきに、遺骨と思うてくれ、と書いてあるんよ」

と言って、また激しく泣いた。祖母も顔がくしゃくしゃになった。

しばらくして祖母が、

「住所を書いてないきに、どこに居るやら判らんねえ。こんなものを送ってくるということは、こわい戦場へ行ったとしか思えんねえ」

途切れ途切れに呟きながら、その手紙を仏壇に供えた。

夕方山から帰った祖父は、その手紙と爪、髪の毛を見ながら、

「わしも日露戦争の旅順二百三高地の戦いで負傷したが、なんとか生きて戻ってきた。あいつも生きて返して下さいと、ご先祖さんに頼まにゃいかんのう」

と言って、仏壇に合掌していた。

 

父はそれから全く音信不通で、家族には諦めに近い気配が出ていた。

そんな雰囲気の折り、終戦翌年の昭和21年(1946)の春に、何の前ぶれもなく父が復員してきた。夢ではないかと思う帰宅だった。

父はシンガポール攻略戦に従軍し、占領したあともそこに駐留していた。そして敗戦後はイギリス軍の捕虜となって抑留されていたそうである。

 

父はあの時送ってきた爪と髪の毛を、

「命を守ってくれたご先祖様に、お礼を言わにゃいかん」

と言って、自家の墓地に埋めた。

 

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めんこい小馬

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石原小学校(当時は国民学校)の4年生だった昭和17年(1942)の春、太平洋戦争中だった。

1頭の小馬が家に来た。軍から預かって飼育し、大きくなったら返すというのである。

農耕や運搬に使う牛は飼っていたが、馬は初めてなのでとても嬉しかった。

その日、学校から走って帰ると、2つある牛舎の空いている方に小馬が居た。のぞき込むと近寄ってきて、閂の間から鼻を突き出して私を見詰めた。目が黒々と丸かった。

閂を乗り越えて中に入ると、小馬は私ぐらいの背で、私に驚いて牛舎の中を走り回った。その背中に抱きついて、私も一緒に回った。

「名は“栄神号”というそうじゃ」

見ていた祖父がそう言った。

それからは私のする仕事が出来た。

朝起きるとすぐ、栄神を引いて運動させ、学校から帰るとまた引いた。引きながら、当時のヒット曲「めんこい小馬」を歌った。

 

ぬれた小馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝の露
呼べばこたえてめんこいぞ オーラ
かけて行こかよ丘の道
ハイドハイドウ丘の道

 

父は戦地に行って、家族は祖父母と母と私の4人だった。その中で接触の多い私に、栄神は一番なついていった。

引いて歩いていると、鼻で私の背中をつついてきた。またある時は、道ばたの草むらに寝ころんでいると、私の顔の上で鼻をぶるぶると震わせ、鼻水が顔に散りかかってくることもあった。

 

わらの上から育ててよ
いまじゃ毛並みも光ってる
お腹こわすな風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイドハイドウないてみろ

 

栄神はぐんぐん大きくなった。私が6年生になると祖父が、蔵から馬の鞍を出してきて

「乗ってみるか」

と言った。興味は覚えたが、少しびびった。

「こればあ馴れたきに大丈夫。乗ってみ」

と言われて、まず鞍を栄神の背につけることから始まり、祖父についてもらって庭で乗り、半月ほど練習した。

そして家の近くの道に出ると、栄神はほんとにおとなしく歩いてくれた。思い切って馬腹を軽く蹴ると、軽快に走った。

走りながら「めんこい小馬」を歌うと、気のせいか栄神の脚のリズムが軽くなったような気がした。朝霧の中を走るのは、何とも言えず気分がよかった。たてがみを撫でながら走った。

しかし、栄神を軍に返す日が近づいていた。“もっと居て”と思いながら走った。

 

西のお空は夕やけだ
小馬かえろうおうちには
お前の母さん待っている オーラ
うたってやろかよ山の唄
ハイドハイドウ山の唄

 

6年生の終わり頃、栄神は軍に帰った。
その日学校から帰って、空の牛舎を見た時のさびしさは、ほんとに長く抜けなかった。

戦時中のヒット曲であったので「めんこい小馬」には、時代を反映させた、次のような歌詞が追加されたりした。

 

明日は市場かお別れか
泣いちゃいけない泣かないで
軍馬になって行く日には オーラ
みんなでバンザイしてやるぞ
ハイドハイドウしてやるぞ

紅い着物(べべ)より大好きな
お馬にお話してやろか
遠い戦地でお仲間が オーラ
手柄をたてたお話を
ハイドハイドウお話を

 

内地で、或いは戦地で、生き残ったのか戦死したのか。栄神はどのような生涯を送ったのであろうか。

 

編集部注 : 写真撮影にあたり、式地営志朗さんとモナカにご協力いただきました。ありがとうございました。

 

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人名渕

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モリタカ渕

セイゴ渕

 

石原の川に「モリタカ渕」という呼び名のついた渕がある。

覆いかぶさった木の枝で薄暗い。渕は深く、そこへ落ち込む水は轟々と腹に響くようであった。

小学校に入って何年か前から、モツゴ釣りをしていた私に祖父母がよく、

「むかしモリタカという人が死んだ渕じゃ。こけたら助からんきに、行きなよ」

と言った。

自分も最初はこわい渕だと思って、そこで釣るのを避けていた。しかし、他の似たような渕で釣っているうちに、いつしか「モリタカ渕」でも釣るようになっていた。

そして、小学校入学を直前にひかえたある日、自分としては忘れ得ぬ記録が、この渕で生まれた。

その日、いつものように、そこの深い渕でモツゴを釣った。よく釣れた。

そのうち何気なく、深い所から下へ流れる浅い瀬に餌を流した。それまではそこで釣ったことはなく、初めての場所だった。

すると、流してすぐ、強烈な引きで竿がキューンと曲がった。モツゴ釣りにはない引きだった。

全く経験のなかった引きに、テグスが切れるか、竿が折れるかもと、はらはら、どきどきしながら、四苦八苦して釣り上げるとアメゴだった。釣ったあと、

“アメゴはこんなところで釣れるのか”

と思い、しばしその瀬を見詰めた。そして、この「モリタカ渕」は、自分が生まれて初めてアメゴを釣った場所、という記憶よりも、記録の一つになったと、子ども心にもそう思った。

帰って計ったアメゴの寸法は忘れたが、結構大きかった。

もう80年も前のことだが、あの強烈な引きは手首に残っている。

もう一つ「セイゴ渕」という渕がある。ここは「セイゴ」という人が死んだ渕だと祖父母から聞いた。

この渕は広く、日も当たって明るい。しかし巨岸がどんと座り、その下はえぐられたようにくぼんで、魚には絶好の隠れ家となっている。

そのためここは、釣るよりも潜って突く方に適している。

ここに初めて潜ったのは、小学校の高学年になってからであった。金突鉄砲を持って潜った。

深いので最初は、底にたどりつくのがやっとだった。大きく息を吸い込んでおいて、何度も潜り直した。案外早く、岩の底まで潜れるようになった。

そこで似た巨岩の底は、アメゴやイダの宝庫のように見えた。鯉も居た。大きなアメゴが突けた。

色んな場所で釣り、潜って突いた。その中で「モリタカ渕」での思い出が深いのは、そこで人が死んだという言い伝えをかいくぐって行き、そこが生まれて初めてアメゴを釣った場所になった、という思いが強いからだろう。

「モリタカ」という人も「セイゴ」という人も、ここへアメゴをとりに行って、死んだのであろうか。

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橋の上の思い

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西石原の家に風を通したり、彼岸参りをしたり、シーズンにはイタドリや梅や柚子などを採りに帰る。

高知から正蓮寺に上り、土佐山に下りて工石山に上り、工石山トンネルを抜け、相川に下りて帰ることが多い。

その途中、相川の「高相橋」を渡る時に、必ずと言っていいほど思い出す人が居る。相川出身で、県議会議員だった近藤正弥さんである。近藤さんは大阪で吹田、東成の警察署長を歴任されたあと帰郷し、昭和22年(1947)から6期24年間、県議を務められた。高知から相川への県道の拡張整備も、近藤さんの功績が大きかったということを色んな人から聞いた。

思い出というのは約70年前の、私が中学、高校時代の話である。

春休みに時々、自転車で相川へアメゴ釣りに行った。途中で近藤さんに会うこともあったが、いつも笑顔で、

「どっさり釣れたらええねや」

と言ってくれた。

私の祖父は旧地蔵寺村の収入役をしていた関係から、近藤さんとは親しかった。西石原の自宅へも何度も見えていたので、私も早くから顔なじみになっていた。

高相橋の近くで釣っていると、近藤さんが、

「釣れるかや」

と、橋の上から声をかけてくれることがあったが、ある時、

「高知で菓子を買うてきたきに、食いながら釣れや」

と言って、菓子を投げ落としてくれた。

「ありがとうございます」

と、お礼を言いながら菓子を受け止めようとしたところ、菓子が風に煽られて、ポチャンと川に落ちて流された。すると橋の上から、

「流れたねや、ちょっと待ちよれ」

と、笑いを含んだ声が降ってきた。

余り待つこともなく、

「こんどは大丈夫じゃ、食いや」

という声と共に、たこ糸に結んだ菓子がゆらゆらと下りてきた。大きな声でお礼を言いながら、糸の結びをほどいた。

また、ある時は、

「これ、じいちゃんに渡してや」

と、糸に結んだ手紙が下りてきたりした。

そんなことが何度かあった。

私もアメゴがよく釣れた時は、橋まで上って行って、近藤さんに渡した。

渡るたびに懐かしい色々のことを、昨日のことのように思い出させてくれる橋である。

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2つの水筒

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最近の夏は酷暑で、水筒を持って出ることが多い。

幾つかの水筒を使っているが、その内2つは特に思い入れの深いものである。

1つは祖父が日露戦争で、1つは父が太平洋戦争で使っていたもので、前者は100年以上、後者は70年以上を経ている。

どちらも濃いカーキ色、いわゆる国防色で塗られている。蓋はねじでなく、コルク栓である。そのため、ちびて傷んだコルクを何度か取り替えて使ってきた。

日露戦争のは細長く、竹筒を2つに割ったような形、太平洋戦争のは楕円形のボールを2つに割ったような形である。容量は太平洋戦争の方は1.1リットル、日露戦争の方は0.7リットルで、太平洋戦争の方が約1倍半入る。

2つを並べてみて、日露戦争の頃は、充分に水分をとらずに戦っていたのだろうか、と思ったりもする。

祖父は山仕事などに出る時、この水筒を必ず肩に掛けていた。思い出話もよく聞いた。

旅順二百三高地での戦いのうち、最激戦地と言われた東鶏冠山の攻撃に参加した。そこで砲弾の破片を膝に受けて負傷し、野戦病院に後送された。連隊の大半は死んだが、負傷したため自分は助かった。

そういう話を何度も聞いた。水筒については、

「戦場でも野戦病院でも、この水筒は放さざった。日本を一緒に出て、一緒に戻って、こうやって今も使いよる」

そう言いながら、二百三高地に思いをはせているのか、水筒をさすっていた。

平成21年(2009)の12月に松山市の「坂の上の雲ミュージアム」で、これと同じ形の水筒が展示されているのを見た時、はるか以前に祖父から聞いたことのあれやこれやが、次々と脳裡に甦ってきた。

もう1つの父の水筒は、太平洋戦争で、シンガポールまで行ったものである。

父は大豊町出身の山下奉文が率いる兵団の一員として、マレー・シンガポール攻撃戦に従軍した。シンガポールを攻略したあと、他の戦場に移ることなく、終戦を迎えた。そのことで何度も、

「シンガポールからよそへ転戦していたら、おそらく生きて帰ることはなかったろう」

と述懐していた。

祖父と同じく父も、持ち帰った水筒を山仕事や狩猟などの時に、いつも使っていた。

水筒には父の字で「窪内」と刻み込まれており、反対側には「KUBOUCHI」とペンキで書かれている。これについて父は、

「シンガポールに行って、英語を初めて身近に聞いたり、看板で見たりした。ローマ字で名前が書けることが珍しゅうて書いた。これで茶や水を飲んで生き延びてきたきに、大事なお守りよ」

と、祖父と同じようなことを言っていた。

2人とも、新しい水筒を買おうともせず、これを使い続けた。「お守りじゃ」という思いが、ずっと抜けなかったのに違いない。

 

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金突鉄砲

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家の中の壁に色々なものが掛かっている。整理していると、金突鉄砲が出てきた。木の台に針金状の銛が付いたもので、魚を突く道具である。ご丁寧に「小学校四年の時の作」と書いた紙片が付いている。それと一緒に、水中眼鏡が結びつけられている。

突いた魚の大きさを計るため、木の台に寸法の目盛りを刻んでいる。それがセンチではなく、寸で刻み、ちょうど1尺(約30センチ)まである。尺貫法の時代を反映している。

手にとって見ていると、これを握りしめて渓流に行った時のさまざまなことが、実に鮮やかに思い浮かんでくる。

 

金突鉄砲は、山村の子どもたちの夏には欠かすことの出来ない道具であった。夏は渓流でアメゴを突き、春は釣り、秋と冬は山で小鳥をとる。今のような、室内で時間をつぶす方法がなかった時代である。当然、渓流や山が遊び場となる。
そのためには刃物が必要で、金突鉄砲の木の台を作るのも、冬に山へ罠やこぶてを仕掛けるにも、必ず刃物が要った。みんな、ナイフは勿論、鉈や鋸を楽に使いこなしていた。
金突鉄砲を小学校の4年の時に作ることが出来たのも、そんな時代環境のおかげであった。戦時中で、そんなものは売っていなかったので、みんな自分で作った。

 

針金で作った銛を弾き出して、魚を突く動力となるのはゴムである。このゴムを手に入れるのが一番大変であった。
強い力で銛を弾き出すには、それなりの強い弾力を持ったゴムが要る。しかし物資不足のどん底にあった戦時下では、ゴムなどは売っていなかった。
ちょうど村内に、木材とか供出米などを運ぶ公用トラックを運転する人が居た。子どもたちはその人に頼み込んで、交換済みの古タイヤチューブを分けてもらった。これを切って使えば、ゴムは充分過ぎるほどある。みんなで分けて大事に使った。

 

当時のアメゴは、今のように養殖放流でなく、天然ものであった。
働き盛りの男性は軍隊にとられて、渓流には若い大人の男性は居なかった。そのためアメゴは結構多く、大きかった。水中で突くと大暴れして、金突鉄砲をぐるんぐるんと振り回した。
いま、その金突鉄砲を握っていると、水中で暴れるアメゴの手応えが手首に甦ってくる。もう70年も前のことであるのに、ぐるりぐるりと翻るアメゴの腹まで、脳裏にはっきりと見えてくるのである。

 

感触といえば、渕の岩の下でウナギの頭を突いた時、その下半身から尻尾まで、金突鉄砲もろとも右手首にまで、強烈に巻きついてきたことがあった。そのすごい締め付けも、体感として残っている。

小学校4年の時に作り、中学、高校、大学と使い、その後も気が向けば使った。まさに歴戦の友ともいえる金突鉄砲である。

 

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