さめうらダム年表
昭和30年(1955)地蔵寺、森、田井3村が合併し、土佐村となる
昭和35年(1960)早明浦ダム着工
昭和36年(1961)本山町上津川、下川、古味、井尻、大渕5部落が土佐村編入合併
昭和42年(1967)早明浦ダム本体工事着手
昭和45年(1970)町制施行され土佐町となる
昭和48年(1973)早明浦ダム落成
さめうら荘落成
令和2年(2020)さめうらカヌーテラス落成
上津川(こうづかわ)地区
早明浦ダムから湖に沿って県道を奥へ進んで行った先に現れる「大川村」という標識。標識の山手側にある脇道に入ったところ、大川村と隣り合った場所に上津川地区はあります。
最盛期には100名以上が住んでいた上津川地区。当時は行事ごとなどの連絡は家からちょっと出てお隣に声を掛けることで、集落の一番上から下まで(標高差400m、距離にして約4㎞)を伝言ゲームのように連絡ができたそうです。そんな上津川地区も現在は2世帯3名のみ。今回はその上津川地区で最も高いところに住む川村栄己さんにお話を伺いました。
栄己さんは昭和4年生まれの現在92歳。家の下にある畑からスタスタと坂道を歩いて上がる姿はとても力強く、決して92歳には見えません。それでいて、優しさの滲み出る表情には、こちらもスッと笑顔にさせられる魅力があります。
幼少期を振り返る
そんな栄己さん、生まれは上津川地区のお隣、大川村桃ヶ谷(ももがたに)地区。3男2女の長女として生まれ、幼少期はご両親が農業をしていたこともあり、学校が終わると家の手伝いをしていたといいます。
畑の周りでは紙の材料となるミツマタやコウゾなどを育てており、冬になると地域の方と大きな窯で蒸して皮をはぐ作業を助け合う「結」の文化が地域に根付いていたことが懐かしく感じるそうです。
柿や桃の接ぎ木をするのが得意だったお父さんのおかげもあり、家の周りにはビワ・スモモ・みかんなどの木が立ち並び、果物には不自由しなかったといいます。山に入れば、イタドリやスイコギ(スイバ)などを「お猿さんのように」口にし、お父さんに止められるにも関わらず青梅を口にしていたそうです。
母校である船戸小中学校は川沿いにあり、対岸に住む生徒は5・6人乗りの籠に乗って川を渡ったり船をロープで渡して通学していたとのこと。休みの日には川で泳ぐのが大好きな兄に連れられ、川遊びをすることも多く、いたずら好きな弟2人に頭を押さえつけられて苦しい思いをしたのも今では良い思い出だそうです。
人生は紆余曲折
その後、栄己さんは中学卒業と同時に実家を離れ、土佐町の田井地区にあった嶺北病院(現在の田井医院)で看護師として勤務。お兄さんは小学校高等科で猛勉強し、青年学校で船に乗るための勉強をしたのち16歳で海軍に志願。2年後、18歳の時に沖縄の洋上で散華されました。それを機に栄己さんは実家へ戻ったとのことです。
栄己さんが実家を離れている間に実家は上津川地区(当時は本山町)の県道脇に移っており、栄己さんは20歳の時に同じ上津川地区にある今のお家へ嫁ぎました。
その後、2男1女に恵まれた栄己さんは子育てと並行しながら、当時2,000人ほどが暮らしていた白滝鉱山へ野菜の行商をしに通います。上津川地区から白滝鉱山までの山道はのんびり歩くと3~4時間もの距離がありましたが、鉱石を運ぶ架空索道(ロープウェイ)で荷物だけを運んでもらい、栄己さん自身は歩いて通ったそうです。
鉱山の周りにある集落で1件1件のお宅を訪ねて売り歩くことで、商店に置いてもらうよりも多くの売り上げを上げたと言います。帰りは商店で買ったものを籠に担いでまた長い山道を歩いて帰ったとのこと。今でも健在の力強い足腰はこの時期に鍛え上げられたものではないかと思いました。
ダム建設により失われたもの
その後、早明浦ダムが建設されることで、栄己さんの実家も含め上津川地区の多くの家が湖の底へ沈み、ご両親も含めた多くの住人は補償金を手に上津川地区から離れました。そんな中、同じ上津川地区でも栄己さんを含め、ダム建設の影響を受けない地域(高い土地)に住んでいた住民は補償もなく、そこに残るしか選択肢はありませんでした。出ていく者にとっては得たものがあるが、残された者には何も得るものがなかったといいます。そして、それはさらに多くのものを奪いました。
1つは学校。栄己さん自身が幼少期に積み重ねた思い出と共に父兄としての思い出も多く、運動会の競技に参加し、当時流行っていた三波春夫の「東京五輪音頭」をみんなで歌って踊ったことはよく覚えているそうです。
もう1つは綺麗な川。ダムが出来る前は河原の大きな岩に薄紫色のカワツツジがたくさん咲いていて、水はどこでも飲めるくらい綺麗だったと言います。夏になると鮎がたくさん泳いでいて、体の黄色い模様が道路からでもキラキラと輝いて見えたそうです。
栄己さんが発した「学校がなくなるというのは、なんと寂しい」、「昔の川を知っている者として、昔の川をもう一度見てみたい」という言葉に悲しさと寂しさが入り混じって強く心に刺さりました。
同時期に栄己さんはさらに大きなものを失いました。それは最愛の息子さん。役場勤めだった息子さんはまだ成人も迎えていなかったのですが、ある日突然行方不明になり、その後水の中で見つかったそうです。「自ら命を絶つような子ではなかった。病気であれば、自分が一生懸命世話をすることも出来た」栄己さんの優しさに満ちた表情の中にそのような悲しみがあるとは全く想像もできませんでした。
そして今、未来
現在、家族親戚みんながこの地を離れ、先祖代々続いたお墓も町の方へ移したそうです。
文久の時代から200年以上の歴史を積み重ねたお宅も栄己さんの代で最後に。栄己さんとしては仕事があれば子供にも住んでほしいと思いながらも、木を売ることもできずの仕事で生計が成り立たないことも理解していると言います。
そんな栄己さんにとって楽しいことは何かと伺ったところ、
「元気でいることが楽しい。腰も屈まず、背中も曲がらず真っすぐに立っていられる。畑をするにも、何をするにも元気でなかったらできない」
山里離れたところに住んでいるにも関わらず、わざわざ「おばあちゃん元気?」と声を掛けに来てくれる人がいることも嬉しいと言います。
「人生は嬉しいことばかりでない、辛いことの方がうんとある」
数多くの辛い経験を乗り越えた栄己さんの言葉は
どんなに著名な作家にも生み出せない重みを感じました。
栄己さんが少しでも喜んでくれるなら、また「お元気ですか」と声を掛けに行きたい。
目の前に広がる湖の先に栄己さんの優しい表情が浮かびます。
eibo8732f
町民で在りながら知らないことを数々発信してくれる「とさちょうものがたり」に深く感謝いたします。
66年も町民であるのに、恥ずかしい限りデス。
愉しく読ませて頂いています。元気が出マス✋
石原透
eibo8732fさん
コメントありがとうございます。
移住1年目の私にとっては、毎日見ているさめうらダム湖の中に多くのストーリーが眠っていることをとても新鮮に感じております。
未来のためにも、今しか出来ない「記録として残す」という作業を続けていきたいと思います。