古味「下古味」
西暦1,300年代より定住者がいたという古味地区。早明浦ダム建設により湖の底に沈むまで600年以上の歴史があった中で、最後の20年をこの地で過ごした濵口幸弘さんにその時の生活や心境の変化などについてお話を伺いました。
濵口幸弘さんは昭和23年生まれの74歳。嶺北消防署に35年間勤務し、現在は高知県立林業大学校の外部講師として自らの知識や経験を後輩に受け継いでいます。
初対面で頂いた名刺には「100年の森林(もり)作りをめざす山師」という肩書が書かれており、山に対する思いを強く感じられました。
消防署に勤務したのも、山の手入れをしながら勤められるのが消防士だと思ったからだそうです。
そんな幸弘さんが生まれ育った家は、以前お話を伺った川村友信さんのお隣。屋号は「下古味」といい、古味地区で最も下流側に位置していました。
本山町と土佐村の間で
昭和36年(1961年)に本山町から土佐村に編入合併した古味地区。それと同時に幸弘さんの母校である西部小中学校も本山町から土佐村に編入。名前も大河内小中学校に変わりました。
本山町の時代より川を挟んだ向かいの土佐村(東和田地区、柚ノ木地区)から川を渡って通っていた生徒がおり、川を渡る手段は橋でもなく、船でもなく、地上高約30mの吊り舟(人力ロープウェイ)でした。
3本のワイヤロープのみでぶら下がる吊り舟の定員は5人程度でしたが、人数が多いと重く沈むため、中央まで下ると後半が上りになり渡るのもかなり重労働だったようです。
それを危険だと反対する父兄もおり、途中から土佐村中心部にあった田井中学校へ転校する子も多かったとのことです。
その後、町村編入合併や下川鉱山の閉山も重なり、生徒数は減っていくこととなりました。
ダム建設へ向けて
幸弘さんが小学生の時にはダム建設が予定されており、両ダムサイト地点には試掘穴ができたり、水資源公団の職員が調査に来たり、ダム建設後に湖面となる位置に標識が立てられたりしていました。幸弘さんも高校3年生の時には、ダム水没により立ち退きの補償金を決めるための毎木調査のアルバイトをしたそうです。
毎木調査は山の所有者と水資源公団から委託を受けた業者が立ち会い、スギ・ヒノキや広葉樹全てを胸の高さで1本1本に赤いテープを巻きながら太さを測ります。幸弘さんが「スギ〇〇cm」と大きな声を発すると、業者の職員が書類に数字を書き足していきます。
まさにダム建設が進む様子を最前線で目の当たりにしていた幸弘さんでしたが、小さい時からダム建設により、いずれ外へ出ることを知りながら生活していたため、立ち退きをする際にも寂しいという気持ちは感じられなかったそうです。
古味から離れ
ダム建設の立ち退きにより幸弘さんも含めいくつかの世帯が古味地区の高台に造成された古味団地へ移り住む予定でしたが、団地への入居希望者も段々と減り、最終的には古味団地に入ったのは3世帯のみ。
幸弘さんも土佐町の中心地である田井地区に移り住むことになりました。
幸弘さんのお父さんは自宅と同時に水没した山林の代替地として、古味地区の山を購入し、古味団地に作業小屋を建てました。昔と違い車さえあれば自宅から遠くても通勤林業が出来るとの思いからだそうです。
次の世代へ
お父さんと共に山を手入れ(造林地の下地ごしらえ、植え付け、下刈り、間伐材搬出)していましたが、年齢も重ねそれらもなかなか難しくなったのに加え、猪や鹿などの獣が奥山から下りてくるようになり、現在は山の見回りや害獣駆除をしているそうです。
昔は「奥山に猪や鹿、里山に人間」と住み分けられていたが、植林のため奥山の広葉樹は伐採され、猪や鹿も仕方なく里山に下りてきた。さらに里山地帯の過疎や田畑の耕作放棄により、柿や栗などの実もたくさんあるため、猿なども奥山より住みやすい里山へ下りてきたからだそうです。
そんな山の管理も下の世代へ続くよう期待は掛けているが、「林業は3代続く家がない」と昔から言われており、幸弘さんより下の世代は子どもの頃から山で過ごす時間も少なく、山への愛着もあまりないとのこと。
便利な世の中になり、昔ながらの生活が失われつつあることは仕方がない。でも、大きな災害などに見舞われた際、田舎であれば自給自足の生活が出来る。農作物があるし、水もあるし、火も焚ける。何とか生きていける。
幸弘さんもいずれ昔のような生活が戻ってくるのではと思い、子ども達のために家なども残していると言います。「今年の正月は子どもや孫など総勢15人で過ごした」と嬉しそうに話をする姿には、「100年の森林作りをめざす山師」の熱い想いだけでなく、やわらかな温かみを感じました。