当時、この部落には至る処に杉檜の大木があった。
全ての物資の運搬に馬さえいなかった当時のこと、この無尽蔵の木材資源も土地の者にとっては、家屋の建築や修理に使う程度でしかなかった。
阿波の国にはこの木材に目をつけた大材木商人が数多くいた。彼等は吉野川の流域の木材を買い集め、大阪の堺港や和歌山に出荷して莫大な利益をあげていた。
阿波屋重兵衛も当時の大木材商人であった。
何千人もの人夫を土佐に送り、秋から春先迄、買入れた木材を伐採造材して川岸に集積する。
そしてやがて夏が来て大洪水が起きた時、集積されている木材を濁流渦巻く河に流す。
一方徳島の河口にはアバが張られて上流から流れて来る木材を集めて、木材に打ち込まれた刻印によってそれそれの木材商に引渡される。
勿論、何十パーセントか の木材は川岸に掛かったが、それでも大きな儲けとなっ ていたことであろう。
さて、 この阿波屋の人夫二十名程が南川にも来ていた。彼等は飯場と言う大きい小屋に寝起きして、毎日木材の伐採をしていた。
その人夫頭に順太と呼ぶ若者がいた。
二十五歳の青年であったが、さすが阿波の豪商重兵衛が見込んだだけに、読み書きソロバンは達者であり、 その上立派な体格の美男子であった。
徳島の店では番頭であり、出夫の時は人夫頭であった。当時この部落の古田と言う所に玄安と言う医者がいた。そしてお花という一人娘があった。
現在もそうであるように当時の医者は部落一番のインテリであり、文化人であった。
お花も士族の娘と共に土地の者からは姫様と呼ばれ尊敬され、美人であった。このお花と順太が恋に落ちてもそれは決して偶然の事ではなかった。
お花の父玄安夫婦も順太の人柄を見込み結婚を快く許した。
又、順太には父親はなかったが、母親お清も可愛い順太の申し出に異議があろう筈はなかった。
そして二人は家族達の祝福の中に嘉永六年(編集部注:1853年)の秋には晴れて目出度く結婚する事に決まっていた。
順太とお花の二人には嬉しい楽しい毎日が続いた。嘉永六年と言う年は春先からよい天気が続いた。
うっとしい長雨も六月末には早くもからりと晴れ、七月に入って暑い晴天がまた続いた。そして七月十五日の盆を迎えた。
順調な農作物の出来映えに喜んだ村人達は老若男女相集い盛大に盆踊大会が催されたのであった。
順太もお花も多くの村人達と共に楽しい踊りに更けゆくのも忘れていたが、やがて踊り疲れた村人達も三々五々家路につく頃、順太もお花と共に肩をよせ合い楽しく語り合いながら家路を辿る二人の後の木 かげに、嫉妬に狂う若者達がまなこが有ろうとは知るよしもない二人であった。
中編に続くー「土佐町史」より