先日「蛍の住む桂月通り」でもお伝えしましたが、平成6年から平成13年頃まで、土佐町の平野部である宮古野、南泉、東境、三島地区を区画整理する事業が行われました。区画整理事業は大小さまざまな田んぼをできるだけ整形した田にし、道と水路をつけ、どの田も使いやすくするための工事です。区画整理が行われた際にできた水路のひとつが、桂月通り沿いにある蛍の住む水路なのですが、区画整理にはさまざまな苦労が伴いました。
何のためにするのか?
当時土佐町で行われた区画整理事業は、大小様々な田んぼをできるだけ整形した田にし、田のそばまで入ることのできる道と水路をつけ、どの田も使いやすくするために行われました。小さな田は道が狭く、車や大きな機械が入らないため、田植えや稲刈りなどの時には手作業または小さな機械を使うことになり、多くの手間暇がかかります。高齢化などを理由に田の持ち主がお米を作れなくなった時、そのあとを引き受けてくれる人が見つからず耕作放棄地となりやすい。しかし、ある程度の田の面積と道があり、機械さえ入るのであれば、代わりに作ってくれる人が見つかりやすくなります。時代とともに米の作り手が少なくなっていくであろうことを見越した施策でした。
区画整理は地元の人たちの合意がないと話が進められないため、桂月通りのある地区でも工事に入る前、地権者の人たちに田の場所、面積、道路や水路の位置の説明が何十回と行なわれました。
「地元の人にとって、田は財産。先祖代々今まで守ってきたものが場所も形も変わる、もっと言ったら土も変わる。とにかく合意を取るのが大変だった」
と当時、区画整理を担当していた土佐町役場の吉村雅愛さんは話します。
「もういぬる!」
それぞれの人が所有する田は、同じ地区内にあっても飛び飛びに位置することも多く、一旦整地をした後、どの田を基準にその人の田の位置を決めるのかとても苦労したそうです。
「わしは道路ぶちがいい」「せっかく土作りをしてきたのにまた1から作り直さないといけない」
この地でお米を作り続けて来た人たちから多くの声が上がりました。
また、新たに道路や水路を作るために法面が取られ、人によっては田の面積が元の6〜8割になってしまう場合もあったとのこと。説明会の途中で「もうえい!もういぬる!(帰る)」とその場を飛び出して帰った人もいたそうです。
何十回という会を重ねた末、やっと得られた合意のもと行われた区画整理でしたが、地元の人から「土が入れ替わってるから今まで一反で8俵取れていたのに6俵しか取れんかった」とか「田んぼが広くなって水を切っても田んぼがなかなか乾かん」「耕しよったら大きな石がゴロゴロ出てきた」など、「地元の人によう怒られた」と吉村さんは言います。
「地域の人の財産をつついて仕事をするのは、役場の仕事では区画整理だけ。その人はできたものを自分のものとして作っていかないといけない。だからこそ、行政は町民の気持ちにならんといかんし、町民の気持ちに立たんといかん」。
吉村さんはそう話してくれました。
残した風景
さまざまな思いが交錯した区画整理。20年前、地元の人たちは先祖代々の土地を新たな形にすることに躊躇し、大きな葛藤もあったことでしょう。合意をせざるを得なかった方もいただろうと思います。この選択が正しかったのかどうかは色々な意見があると思いますが、区画整理の結果、今もこの地でお米を作り続ける人がいることで水路に水が流れ、蛍が住む環境が守られている側面もあるのではないでしょうか。その環境を整え続けている地元の人たち、そして蛍の灯りを楽しみに足を運ぶ人たちの姿そのものが、20年前の選択が残したひとつの風景なのだと感じます。
桂月通りの蛍は今年も卵を産み、来年の瞬きのために水の中で成長しています。その蛍の営みは、この地の人たちがつくる風景の元に成り立っているのです。