昭和28年10月1日に〝財政力をより強化し「地方団体に国より優先的に多くの仕事」をさせるため、町村単位の規模を人口7000ないし8000にすべきである〟というシャウプ勧告に基づき、町村合併促進法が3カ年の時限立法として施行されました。
簡単に言うと『3年以内に人口が7千人~8千人になるように合併してねー』ということ。
嶺西地域の村(森、地蔵寺、田井、吉野)でも、4ヵ村の助役による(昔は副町長のことを助役と呼んでいました)協議会が開かれ、何度も調査研究会において検討した結果、昭和30年2月22日の協議会でようやく森・地蔵寺・田井各村の合意が成立。
昭和30年2月28日に「合併条件に関する協議書」が三村の間で取り交わされます。
そして昭和30年3月31日、いよいよ「土佐村」の誕生です。
どうして「土佐村」という名称になったと思います?
村長の独断?住民投票?
いいえ、違うのです。
森村、地蔵寺村、田井村は吉野川支流に添った地域にあって、民情風俗・産業・文化とか生活環境がおんなじやし、由緒と愛着の情がすごく深くて共通した村。高知県は昔から土佐の国って言うし、森村 地蔵寺村は明治22年の地方制度の改正の時に、高知の中心的位置を保って「土佐郡」になった。
でも土佐郡の町村は、高知市に併入されたり吾川郡伊野町と合併したりして6村しか残ってない。そしたら、合併してできる新村の名前は、
土佐郡が発展するように
そして
『土佐』の名を永久に代表できるように
「土佐村」にしよう!
そんないきさつがあったらしいです。
素晴らしい。
『土佐』に対する強い思い入れ、強い愛着が感じられます。
ここで、「土佐町が生まれた日」を読んでくださった方は『あれ?』と思ったのではないでしょうか。
土佐町の名称を考える時、『土佐』という名称がつく市町村が多いき、他の名称にしよう!という話が持ち上がっていましたよね。
・・・この時の 強い気持ち・強い愛 はどこへ行ったんじゃい。
全然ど忘れ。
何はともあれこの時「土佐村」が生まれたからこそ「土佐町」があるのですね。