土佐町と隣町の本山町にまたがるように位置する「さめうらダム」。ダム湖面は朝に夕に澄んだ空を映し、カヌーや釣り、サイクリングなどを楽しむ人たちが訪れます。
さめうらダムが完成したのは1973年。建設のため、土佐町や隣接する大川村の多くの家々や土地がダムの底に沈みました。
その時、この土地で暮らしていた人たちは、一体どんな風景を見ていたのでしょうか。
時代とともに当時のことを知る人は高齢化、語ることのできる人は少なくなっています。
とさちょうものがたり編集部は、当時の様子を知る人の元を訪ね、お話を伺うことにしました。
未だ知りえぬ歴史と事実に耳を傾け、この地にあった暮らしを記していきたいと思います。
さめうらダム年表
昭和30年(1955)地蔵寺、森、田井3村が合併し、土佐村となる
昭和35年(1960)早明浦ダム着工
昭和36年(1961)本山町上津川、下川、古味、井尻、大渕5部落が土佐村編入合併
昭和42年(1967)早明浦ダム本体工事着手
昭和45年(1970)町制施行され土佐町となる
昭和48年(1973)早明浦ダム落成
さめうら荘落成
令和2年(2020)さめうらカヌーテラス落成
古味(こみ)地区
ダムに沿って走る県道から少し上がったところ、周りをうっそうとした森に囲まれた場所に古味という集落があります。
今では3世帯のみとなってしまった古味地区で地区長を務める川村友信さんに早明浦ダムと共に積み重ねた思い出についてお話を伺いました。
県道よりも遥か下、今はダムの底に沈む旧古味地区で生まれ育った友信さん。当時は吉野川の畔を中心に約30世帯が暮らしており、51年前(当時28歳)のダム建設に伴い今の土地へ越してきたのだといいます。
旧古味地区は広く緩やかな傾斜地に田畑が広がっていて、中学校を卒業した友信さんもお父さんに付いて蒟蒻や椎茸、和紙の材料となるミツマタ、コウゾの栽培をしていました。
本山町から土佐村へ
友信さんが20歳になった年(昭和36年)、本山町に属していた古味地区は周辺4地区と共に土佐村へ編入しました。編入の賛否を巡っては100名もの警察官が住民投票の警備に当たり、票判定の問題から法延闘争へと突入、最終的には最高裁まで持ち込まれたといいます。※土佐町ストーリーズ「そして、編入合併へ・・・」
そんなこともあり、古味地区で生まれ育った友信さんは土佐町に住みながらも、心の中では今でも本山町育ちという意識が根付いているそうです。
出る者と残る者
それから8年後、ダム建設により古味地区はダムの底へ沈むことに。立ち退きに伴う補償の交渉を重ね、多くの住民は本山町や高知市内、土佐町の中心地である田井地区へ越して新しい生活を手に入れましたが、友信さんのお父さんは古味地区に残るという決断をしたといいます。そして移動した先が今の土地。
早明浦ダムといえば、真っ先に思い浮かぶのが国とダム建設反対派との闘争でしたが、古味地区ではダム建設に関する揉め事などは一切なく、反対した者もいなかったといいます。
友信さん自身も「元々住んでいた土地に対する思い入れなどは特にない」と意外なまでにあっさりでしたが、当時2歳だった娘さんが「自分の家がなくなる」と泣きじゃくったという話には、聞いていて心打たれました。
立ち退きに伴う補償内容に関しては「それまで住んでいた土地の広さや用途、庭木の種類や太さ、樹高などを細かく測定し算出された」とのこと。
「折った木の枝を庭に埋めて少しでも価格を吊り上げようとする者もいた」という話には思わず吹き出してしまいました。
移り変わる仕事
畑や田んぼを失ったこともあり、仕事はダム建設に関わるものに大きく方向転換。土方仕事からクレーン車に油をさす作業員、砕石を運ぶダンプカーの運転手など数多くの仕事をしたといいます。そこは農業や林業など色々とこなす山の男ならではのフットワークの軽さを感じました。
今と違い、仕事が終わればみんなで飲みに行き、飲酒運転は当たり前。「帰り道は泥酔状態で、センターラインだけを頼りに車を走らせた」という話に時代性を感じると同時に、それを楽しそうに話す友信さんの姿にも微笑ましく思いました。
そして今、未来
現在は自家用椎茸、野菜の栽培や山の維持管理をしているという友信さん。ダム建設により古味地区を離れた人も多いそうですが、ダム建設に関係なく離れた人も多く、世代交代とともに帰郷する人も減ったそうです。友信さんが何気なく発した「10年もしたら、ここも人がいなくなる」という言葉がとても重く、それと同時に寂しさを感じました。
今回、友信さんとお話をさせていただき、「故郷を奪われること」に被害者的な意識を持たれているであろうという固定概念が覆されました。自分自身には変えることのできない出来事に対し、柳のようにしなやかに生きることもまた人としての強さであることが友信さんの話から感じられました。