こずえです。
前々回のお話の続き、故・父義雄のお話に戻ります。
話は上の航空写真のよりもさらに10年ほど前、昭和58年に遡ります。この時はまだ、ミシマファーム の周りは田んぼしか無かったんですよ。(写真は平成8年)
今、改めてこの写真を見てみるとたった20年という短い期間ですごく三島地区が変わったな、と実感します。
父はこんな何も無いところにミシマファーム の作業小屋を改装して地域の民芸品を販売する「直売所」を作りました。
もちろん、自分のぶどうを販売するのが当初の目的だったんでしょうけど。
「地域の自然を守りたい。地域の為に何かしたい。地域の人たちの作ったものを買いに来てくれるところを構えたい。そして地域の人たちが集える場所を作りたい。」
常々地域と自然のことを考えている人でした。
そんな思いからだったのでしょう。
その直売所には地域のいろんな人たちが今では珍しい品々を出品していました。
例えばほんの一例ですが
「手作りの木製花瓶」
「川魚を捕まえるための竹製の漁具」(「ブッタイ」といいます)
主に「ゴリ」といってこの地域の川に沢山いるハゼ科の魚を取る時の道具です。
とか
「藤葛(ふじかずら)で編んだ飾りや籠」
そして
↑ これ、何かわかります?
これは「正座用折り畳み椅子」です。
全て地域の人たちによる地域の素材を使った、まさに「ふるさと手づくりもの」です。今となっては作り手も減り、手に入らないようなものが他にも売られてました。
その当時の売れ残ったものなんかが、今でもうちの物置からちょくちょく出てきます。(写真のものがそうです)
地域の人たちが集い、お話したり、出品したり、ただお顔を見に来たり。たまに商品を買ったり。。
人と話をするのが大好きな父自身、とても楽しそうに皆さんとお話していたのを思い出します。
やがて母が直売所内でお食事処も始めたことも相まって様々な人が集うにぎやかな場所になりました。
そして平成に入り、「もっと地域に人を呼んでもっと地域が潤う事をしよう!」
という声が高まり、父と数名の同志、役場が筆頭になって土佐町にもっと大きい直売施設を作る計画が浮上しました。
当時、普及し始めた「道の駅」を土佐町に作る計画がスタートしました。
「道の駅土佐さめうら」の始まりです。
〜続く〜