賀恒さんは土佐町の隣、いの町で生まれた。
「昔からの血縁関係で、叔母に子供がなかったから土佐町に連れて来られて。兄弟10人もおったもんじゃき、戦争が終わって食料のない時で、口減らしによ。中学校を卒業するのを待ちかねちょって、世話せいと言われて連れて来られてよ。15歳の時よ」
賀恒さんはその時からこの芥川の家で暮らし始めた。
「最初は電気もないところでよ。叔父と叔母と3人だけの生活じゃったけ、なんでこんなところに養子に来たんじゃろうと考えてみたり…。炭を焼いたり、三椏をとったり、そんな生活をしてた。1日がかりで歩いて高峯、陣ヶ森を超えて石原へ買い物に行った。石原へ行くのに高峯の参道を超えていくのが一番近道で。高峯への道は、自分が若い時の生活道よ」
「今、自分は85歳。今となって初めて考えることがあってよ、先祖は60代、70代で亡くなっちゅうけど、自分は85歳。ここまでどうして生かしてくれたろうと感謝しよります」
賀恒さんはそっと笑うのだった。
親戚とはいえ、自分の実親ではない人に育てられたことを賀恒さんは今まで何度も私に話した。そしていつも「叔父も叔母もとてもよくしてくれたのよ」と言い添えた。
「土佐町史」という深緑色をした布張りの厚い本がある。この本には土佐町の地域ごとの歴史や文化、言い伝えなどが詳しく書かれている。賀恒さんはこの町史を読み込んでいて、高峯神社のことはもちろん、神社の境内にある手洗い石のこと、高峯神社への道しるべの存在、山や峠、峰の名前…、たくさんのことを教えてくれた。
出会ったばかりの頃、私は賀恒さんのことを歴史が好きな人なのだなと思っていたが、一緒に高峯神社を歩くうちにそれだけではないのでは、と感じるようになった。
これは想像だが、町史を読み、実際にその場所を訪れ、ひとつ一つの史実や事実を知っていくことは、実の親元を離れて土佐町に来たこと、この場所で生きていく現実を自分自身に納得させていくような作業だったのではないか。そんな風に思うようになった。
「あそこにお墓があるろう?よく見てみたんじゃけんどよ、15代前の人のもあった。不思議に思うんじゃけんどよ、もし誰か一人でも欠けていたら自分はいなかったんだなと思うのよ。そう思うと今ここにいるのが不思議だなあって」
ひとつひとつの石に刻まれた名前。
この石が、この地で生きていた人たちがいたことを教えてくれている。
会ったことのない先祖たちがいたこと、そのうちの誰か一人でもいなかったら今の自分は存在しなかったこと…。そのことを初めて理解したのは、確か小学生の頃だったと思う。自分とつながる人たちが手をつなぐように、絡むように、深く延々と、まるで螺旋のように迫ってくるような気持ちがしたものだった。人は皆、誰でも体の内にその螺旋を持っている。人はいつも必ず誰かと繋がっているのだ。
(「高峯神社の守り人 その4」に続く)