今は空気銃も免許制だが、私の子供の頃は皆、自由に使っていた。
小学校の高学年になると、戦地へ行った父が置いていった空気銃を持って、山で小鳥を追った。
空気銃にからむ1つの思い出がある。
山で、小鳥が居ないので木に残っている熟柿を射って遊んでいると、背後から、
「空へ弾丸が抜けるようにせにゃいかんぞね」
と声がかかった。振り返ると、地下足袋、巻脚絆姿で、肩に猟銃を掛けた見知らぬ中年の人だった。そして、向うの方を指差しながら、
「向うに畑があるろう。人が居ったらおおごとになるぞね。柿を射つならもっと真下へ行って、空へ抜かにゃいかん」
穏やかな言い方であった。そして背中のリュックから取り出した“ほしか餅”を渡してくれ、にっこり笑って山の奥に行った。
その言葉は、子供心にもじわりとしみ込んだ。それからは熟柿はもちろん、小鳥を射つ時も、獲物の向うを必ず見極めるようにした。
帰って、その人の年恰好を祖父に話すと、
「時々山で見かけるが、知らん人じゃ」
と言った。
終戦の昭和20年(1945)に私は旧制海南中学校に入り、高知市に下宿した。
戦災が徐々に復興し、中学校野球も復活して、旧制城東中学校の前田祐吉投手が、名投手の名をとどろかせた。
前田投手の投げるのを見に、高知市営球場に行った時、山でのあの人と会った。3年ぶりぐらいだった。
その人は私が中学校に入っていることを喜んでくれ、アイスケーキを買ってくれて、山での“あの時”の思い出も話した。
その後私は高校、大学を経て昭和30年(1955)に産経新聞大阪本社に入社し、35年(1960)に、社会部から北陸の福井支局に転勤した。その福井支局当時のことである。
福井に於ける大きな取材源である曹洞宗大本山永平寺へ取材に行った時のこと。
小さな谷川沿いの参道を上ってくる観光客を狙って撮影した。
人の列が過ぎ去ってカメラから目を離した時、のんびりと周辺の写真を撮りながら上ってくる人が居た。
近付いて目が合った瞬間、双方とも相手の顔を見詰めて立ち止まった。相手は60歳ぐらいの人だった。
その人が先に口を切った。
「間違っていたらごめんなさい。むかし高知の山で、空気銃を持っていた子供さんじゃありませんか」
瞬間、脳裡に石原の山、高知市営球場と、15年以上も前のことが甦ってきた。
初めて会った山では“ほしか餅”を貰い、2度目に会った野球場ではアイスケーキを買ってもらった。
その時の情景を思い浮かべながら、3度目に会ったこの時は私の方から永平寺門前の店に誘い、越前料理を食べてもらった。
その人は戦時中、肺浸潤が治ったばかりで、体力回復のために、あちこちの山野を歩き回っていた、ということであった。
谷川のせせらぎが聞こえる老杉下の店で1時間ほど、思い出を遡らせながら話し合った。
そのあと、その人は東尋坊観光に行った。
思い出話に熱中して、相手の名を聞く気が回らなかったのであろうか。或いは3度会って話もしているので、相手の名を知っているような錯覚をしていたのであろうか。
その人の名は今も知らない。
撮影協力:高橋通世さん