同窓会などに出ると、在校当時の思い出話に花が咲くのは当然である。それと共に、育った環境が同じ者同士で、遊んだ方法などを語り合うのも楽しい。
山育ちの友と合槌を打ち合いながら、
「そうや、そうや、俺もそれをしたよ」
と話に興じる。時には女の同窓生も、
「私も、遊び道具は鎌やナイフや鋸やった」
と言って割り込んでくる。
春はアメゴ釣り、夏は潜ってアメゴ突き、冬は小鳥とりと、みんな似たようなことをして育ってきた。
家での遊びでは、竹馬、缶馬、孟宗竹馬の話題がよく出る。
竹馬と缶馬はみんなが作っていた。缶馬は缶詰の空いたのを逆さまにして、上部の両脇に紐を付けて手綱のようにし、2つの缶に乘って歩く。
竹馬では坂道はもちろん、冬の冷い川を渡るのが面白かった。入って渡るには水が身を切るように冷いので、竹馬は最適の道具である。と、誰もがそう思って誘い合い川に行った。しかしそれは甘い考えであった。
うまく渡れることもあったが、水底の石で竹馬がすべって、横倒しに落ちる。また、砂にめり込んで竹馬を引き抜くことができず、焦ってもがいているうちにバランスを失ってドブン。こんなことの方が多かった。それにもこりずに、川へ行き続けた。
缶馬の方は竹馬ほど頑丈ではない。空き缶であるだけに、時には体重のかかりぐあいによって、ぐしゃりとつぶれることがあったり、錆びて使えないこともあった。
戦時中であり、物資は配給制で、缶詰は少なかったので、缶馬作りはすたれていった。
ある時、子供たちの間で誰言うとなく、
「孟宗竹が缶の代りになる」
と言い出すと、
「そりゃあ、ええ。やろう」
と忽ち衆議一決、鋸を持って竹林へ走った。そして缶詰ぐらいの大きさの孟宗竹を切り出すと、節が缶詰の底に見合うようにうまく切り、それこそあれよあれよという間に、缶馬ならぬ孟宗竹馬を作り上げた。
これは缶よりも強く、安定もよかった。
それに乘って遊ぶうちに、はじめは缶詰と同じような高さにしていたのが、次第に高くなっていった。高い方が竹馬感覚になり、歩くにも工夫が要って面白かった。
こんな体験は同窓生の多くに共通のことだが、その内の1人が、
「こんな話、孫たちにはもう通じんわ」
と言った言葉に、みんな黙って、うなずいていた。