「デザイナーは喧嘩師であれ」 川崎和男 アスキー出版局
僕が下手に紹介文を書くよりも、この本の前書きにあたる「デザイナーは、喧嘩師でなければならない」という文章を、ここに全文引用したいと思ったのです。
ですがそれはこの項の趣旨ではないので、一部のみそのまま引用します。
子どもにとっては、喧嘩ほど、激している感情から知性的な自己中心性を取り戻すはっきりとした学習のチャンスなのではないかと私は思う。喧嘩こそ、自我の確立を助け、もともと肉体的に多少なりとも暴力性を秘めている人間の原初的行動を抑制して、話し合いや討論に変革させる動機付けになるはずだ。
ところが「暴力」ということばは拡大解釈され、「悪」という概念に単純に結びつき、喧嘩を抑制することにのみ使われるようになってしまった。結果は「話し合い」が正しいとかいうわけだ。
強要される話し合いというのは形式でしかない。現代の民主主義はこの形式が強要されている暴力と言ってもいい。
(中略)現代では、喧嘩のできない子どもが「いい子」として扱われる。この「いい子」を摩擦回避世代と呼ぶらしい。
そしてこの前書きの最後は、上の写真にあるように、
若者よ。喧嘩を恐れるな。
摩擦回避世代の者たちよ。一発殴ってやろうじゃないか。
という文で締められます。ストロングスタイル。すごい。
川崎和男は、日本を代表するプロダクトデザイナー。その美意識を結晶化するような仕事の数々と、クライアント相手でも喧嘩上等、場合によっては完成したデザインを引き上げてギャラも突き返すという姿勢で知られています。
現代の社会における暴力への嫌悪感、これはもちろん悪いことではない。むしろ戦争を筆頭にした数多くの暴力を経験してきた人類の叡智というものでもあるでしょう。その中には例えばガンジーの言う「非暴力主義」として現実社会において具現化した例も実際にあるわけです。キング牧師も然りですね。
ただ、これを社会のすべてにおいて当てはめたときに、そこはかとない違和感を感じるのは、これを書いている私一人だけではないように思います。
例えばこの本の前書きに触れられているような子ども同士の喧嘩。または頑固じいさんが近所の悪ガキに落とすゲンコツ。こういったことも全て「許されざる暴力」でしょうか?その見極めはとても難しいものに思いますが、一つだけ言えることは「非暴力」と「摩擦回避」は似て非なるもの。
ガンジーもキング牧師も、「非暴力」を掲げながら、最大級の摩擦・インパクトを社会に与えた指導者たちです。言論・思想のぶつかり合いは辞さない、しかし手段としての暴力は否定する。
「暴力は悪いもの」という考え方が行き過ぎた末に、川崎和男が書いたように「とにかくぶつかることを避ける」という摩擦回避世代の出現がくるとしたら、「一発殴ってやろうじゃないか」という心意気には拍手を送ります。