ソータのポケット
入学の日、新しい「モーカ(布地の種類の一つ)」の着物に、綿入れの「ソータ(袖なしの上着)」、貧しい生活の中で母が作ってくれた物でした。ソータの左の裏には、赤い大きなポケットが付いていて、思わずニッコリ。訳あり、ハンカチ、鼻紙の外に入れたい物があったのです。
昔々の事、その時季にはどこの家にも、柿、ホシカを軒下に吊るしてあったのです。親の目を盗んで外して、ポケットに入れ、かくれて食べたのです。お菓子等買った記憶は余りない、大事なポケットでした。
当時はランドセルを負って居る生徒は少く、赤い布の肩かけカバンでした。足には年中草履、横緒に赤い布を巻いた母の作った物でした。
昭和8年4月、土佐郡森村、相川小学校に入学。勿論複式。宮﨑校長、松岡先生。女先生は清水先生。優しい先生で、校舎の上の住宅に住んで居ました。同級生は13人、只一人、男子は真一君1人でした。
母に似て小さかったが、前から2番目でした。樫山から来ていた「みや子さん」と云って、唱歌の上手な可愛い子でした。
複式なので二年生と同じ教室で、清水先生の受け持ちでした。兄は四年生で二学級、五,六年は三学級でした。
購買部では上級生が学用品を交替で売っていました。午前中が四時間、午後が二時間。下級生は午前中の四時間の授業で帰り、昼食のお茶湧かしは、五,六年生が交替で湧かし、時間替りの合図は、廊下の吊り鐘を五,六年生がカーンカーンと鳴らしていました。
広く感じた運動場も85年余り過ぎ、様変わりして長かった過去が懐かしく偲ばれます。面影はなくても当時の影が浮かびます。
向って右の端が土間で、下駄箱があって、雨の日には濡れた草履を斜めに立てかけて入れ、帰りには半乾きのしめった草履を履く時の嫌な感じ。昨日のことのように思い出す。
(続く)