てんごのかあ
【名詞】余計なこと。色々なことに興味があって、何にでも手をだす人
例:お前の母ちゃん、てんごのかあ
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この見事な木を見てください!
これは土佐町の川村雅史さんが撮影した、柿の木の写真です。雅史さんは現在83歳。土佐町の早明浦ダムの底に沈んだ、柿の木地区に住んでいました。
柿の木地区には、一本の大きな柿の木がありました。
それはもう見上げるような大木で、甘くて美味しい実がたくさんなったそうです。この柿の木からあったことから、この地は「柿の木」と呼ばれるようになりました。
写真の木のそばに立っている男性は、川村かいじさん。同じく柿の木地区に住んでいた人だそうです。写真を撮るためにわざわざ着替えに帰り、おしゃれをしてやって来たのだとか。当時は写真を撮ってもらうことは、特別なことだったのでしょう。
写真の柿の木は、幹が真ん中で分かれています。梯子をかけてそこまで登り、夢中で柿の実を収穫したそうです。でもそれ以上登ることはとても無理、高いところの柿は泣く泣く諦めたそう。木の下では、指をくわえた子どもたちがうらめしげに見上げていたかもしれませんね。
この柿の木は、柿の木地区がダムの底に沈む前に枯れてしまったそうです。
「昭和天皇物語」 能條純一 小学館
「月下の棋士」をご存知の方が多いかもしれない漫画家・能條純一。
人間の感情を生々しく、同時にとても冷徹に描くことに定評がある漫画家ですが、最新作の題材が「昭和天皇」であると知ったときは非常に驚きました。
このテーマは、おそらく日本人作家が描くにあたって最も難しいもの。
同時に、昭和天皇のフィクション化というか、物語化が実現するぐらい、昭和から長い時が経ったということでもありますね。昭和は遠くなりにけり。
このテーマに手を出すのは勇気のいること。そう考えていたら、著者が4人いることに気がつきました。能條純一の他に、半藤一利(原作)・永福一成(協力)・志波秀宇(監修) です。
ですよね。一人では手に余りますよね。各々が得意分野を持つ専門家チームが共同で作っているという感じなんでしょう。打ち合わせの現場を覗いてみたいものです。
物語は昭和天皇裕仁を一人の人間として描いています。自分の心の内で、教科書でしか知らなかった人物に、少しずつ血が通っていくような感覚を覚えます。
青年・裕仁がどのような苦悩の末に8月15日の玉音放送の日を迎えるのか。日本の歴史の中で昭和天皇裕仁の役割とは一体なんだったのか。
まだまだ興味の尽きない作品です。
この記事は前回の「鹿の角ガチャの今」の続きです。
突然ですが、とさちょうものがたりの「鹿の角ガチャ」、業務提携します。
お相手は梼原町の「ゆすはらジビエの里」の平脇慶一さん。
今回の記事はその経緯と内容をご説明します。
「ゆすはらジビエの里」の平脇さん(左)ととさちょうものがたりの石川(右)
まずは梼原町の「ゆすはらジビエの里」のご紹介から。
梼原町は鹿や猪などの野生動物が多く、そのため猟友会の活動も盛んです。ゆすはらジビエの里は、梼原の猟師さんたちと協力し、鹿や猪など農作物を荒らす野生動物の捕獲と解体、ジビエ肉としての販売を行なっています。
ゆすはらジビエの里が運用している「ジビエカー」は耳にしたことがある方が多いかもしれません。少し遠目の場所で捕獲された野生動物は、解体処理施設まで運搬する際に鮮度が落ち、販売に適さないものになってしまう場合がありますが、ならば施設側が動けばいいという逆転の発想で、「解体処理施設を搭載された車が捕獲場所まで移動する」という方法を編み出しました。
今年4月に、知人のお誘いを受けて梼原町を訪問しました。その際に梼原町前町長の矢野さんにお会いし、お話を伺っているうちに、梼原のいろいろな方々に紹介していただけることになりました。
その日のうちに矢野さんと一緒にあちこちを周り、紹介されたうちのお一人が前述の「ゆすはらジビエの里」の平脇慶一さん。
ちょうどとさちょうものがたりが鹿の角ガチャを開始する直前というタイミングもあってそのお話をしたところ、平脇さんの方でもピンとくるものがあったようでした。鹿の角ガチャ、実際の取り組みが始まった頃に「梼原でも同様の取り組みをしたい!」というご連絡をその後いただき、その後のお付き合いにつながっています。
実際、「ゆすはらジビエの里」では「竹ぼうき」という梼原町の障がい者支援施設と手を組み、鹿皮を使った工芸品などを制作していたという状況もとさちょうものがたりと似ている部分でもあります。
梼原町のガチャ本体は梼原の最も人が集う場所である「雲の上の図書館」内に設置されています。
わざわざ硬い言葉で「業務提携」などと言ってみましたが、実際は半分冗談みたいな話です笑
「ゆすはらジビエの里」ととさちょうものがたりが手を組んで協力態勢で臨むのは、鹿の角の供給部分。
とさちょうものがたりの鹿の角ガチャの材料である鹿の角、この一部を梼原から供給してもらい、その代わりに、こちらで制作した「鹿の角御守り」の一部を梼原町のガチャに入れる。
お金はぐるぐる回らないけれど、鹿の角が梼原町と土佐町をぐるぐる回る。
その態勢を「ゆすはらジビエの里」ととさちょうものがたりが一緒に進めていくということが、今回の業務提携の内容です。
上図に示した内容、活動自体はこれからどんどん進めていきますという段階です。鹿の角が媒介する梼原町と土佐町との関係も、少しずつ強固なものにしていけたらと考えています。
ゆすはら雲の上の図書館に設置されたガチャは木目調です
知り合いの農家さんからハネのトマトをたくさんいただいた。
「8月の長雨でトマトがいかんのよ」
トマトはハウスの中で育てていて雨は当たらないのだが、それでも割れてしまうのだという。
「ほんと、涙が出るばあよ。こんなことは初めて。このまま置いても傷んでしまうから、もらってもらえたら」
そう言いながら分けてくれたトマトは、大きな箱3つ分もあった。
これはほんの一部
この大量のトマトで、トマトジュースとトマトソースを作ることにした。
傷んでいる部分を取り除き、大まかに切ってミキサーへ。これはトマトジュースになる。
一口大に切ったトマトは大鍋へ。これはトマトソース用。
写真左はトマトジュース。一煮立ちしたら、塩と砂糖を入れて味付けする。表面のオレンジ色のブクブクはアクで、アクの下はきれいな赤色の果汁。もったいないのでアクは取らずに、そのまま一緒にジュースにする。これがびっくりするほど「うまい!」。トマトそのものが体の内側に染み渡っていって、一口飲むごとに元気になれる。
右はトマトソースにするべく、コトコト煮詰めているところ。煮詰めるにつれ、汁が出てきて鍋から溢れ出そうになる。
半日かかってできた数々。ペットボトルに入っているのがトマトジュース。ペットボトルのまま冷凍できる。瓶はトマトソース。煮沸消毒した瓶に詰め、蓋をぎゅっとしめる。常温で保存できる。
トマトが割れることなく育っていたのなら、いつものようにお店に持っていって販売できたはず。「近年は天候や気候の変動が激しい」農家さんはそう言っていた。そのなかで「なんとかやりゆうのよ」、と呟いていた。コロナ禍もあり、農業研修生の受け入れもできず、人手が足りない状況が続いている。農業を担う方たちは徐々に高齢化、多くの方たちがギリギリのところで踏ん張っているではないかと思う。あと5年、10年したら、どのような状況になっているのだろうか。
トマトを切りながら、トマトを分けてくれた農家さんの顔が何度も思い浮かんだ。
この写真は、土佐町の森地区に住む上田英一さんのアルバムの一枚です。
英一さんは現在92歳。10年ほど前まで、森地区で上田百貨店という商店を営んでいました。
若い頃、森地区の消防団にも入っていたそうで、これは操法大会で入賞した時の写真です。操法とは、消防団員がポンプ車や小型ポンプの取扱い、操作の手順を習得する訓練のこと。その操法の技術を競う大会を操法大会といい、今でも2年ごとに開かれています。(注:コロナ禍に伴い、昨年・今年度は中止になっています)
前列右端が英一さん、この時30代。
当時は嶺北消防署がなく、各地区に消防団がありました。火事が発生すると半鐘を鳴らし、町内に火事を知らせたそうです。その音を聞き、消防団員は自分の仕事を放り出して現場へ向かいました。
森地区にはポンプ車が一台あり、飛び乗って現場へ。けれども、ホースからまともに水が出ず、火を消せずに全燃してしまうことも多かったそう。
土佐町には現在も消防団が各地区にあり、町内放送が入ると団員は昼夜を問わず現場へ向かい、町の人たちの安全を守ってくれています。
*現在の消防団(田井地区)です。
鹿の角ガチャのその後がご報告できていなかったので、今回はそういった趣旨の記事です。
その前に、鹿の角ガチャの記事いくつか以下にリンクを貼っておきます。
さて、その後おかげさまで販売も順調で、2カ所の販売所である「うどん処 繁じ」と「高知蔦屋書店」両方で、約3週間ほどで補充に伺うようなペースで売れています。
ガチャの機体に満杯になるカプセル数は40です。単純に言えば、約3週間で40個が売れているような状況です。
順調な売れ行きを目の当たりにして、商売的(資本主義的)な正解として考えると、設置場所を増やしてどんどん大量生産すればもっと儲かるやないか仕事が増えるやないか、という考えが普通に脳裏によぎるのですが、この商売そう単純なことでもないようです。
①障がい者施設の利用者さんたちの仕事にすること ②土佐町の資源を利用してガチャの内容とすること
以上の二つがこの取り組みの目的ツートップですので、この目的を実現できないと意味がない。通常、ガチャガチャのビジネスモデルは”中国などの工場で大量生産”→”原価を抑えて大量販売”というものだと思うのですが、この鹿の角ガチャはそういった通常モデルとは根幹の目的が異なるので、言葉を変えると①地元の人々の仕事にならないと意味がない ②地元の(余った)自然資源を利用できないと意味がない という言い方もできます。
くどくどと理屈っぽいことを書いてしまいましたが、そんなような理由で、そもそもの目的実現のためには、「自分たちのペースを守る」「やたらと広げすぎない」というのが正解になるようです。
こういう考え方は最近よく耳にする「脱成長」なんかとも関連のあることとも思うのですが、それはまた、こうして実際の取り組みで実証しながらまた改めてご報告したいと思います。
この鹿の角ガチャ製作に、頼もしい助っ人が現れました。青年海外協力隊で土佐町に半年ほど滞在していた八木裕次郎さんです。
なぜ青年海外協力隊が土佐町に?と思われるかもしれませんが、この全世界的なコロナ禍において、海外赴任を一時中断している方々がその間地方自治体に赴任するという試みをされているそうです。
八木さんがとさちょうものがたりの作業場を訪れた際に、鹿の角ガチャ製作に志願してくれたので、ありがたくやってもらうことにしました。
作業中の八木さん
100個製作したところで、その後の作業は大豊町の障がい者施設ファーストさんへ。利用者の皆さんと一緒にカプセルに詰めるところまで完成させました。
ファーストでの作業風景
この時に完成させた「鹿の角お守り」は近々に販売に回される予定です。
それから「鹿の角ガチャ」に関しての大切なお知らせ「業務提携します!」ということも書くつもりでいたのですが、今回の記事が長くなったのでその件は次回に回したいと思います!